考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

傷つき続ける覚悟

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明日と明後日、また忙しくてブログ書けないかもしれないから、今日3本書く。

 

x.com

 

 

泉房穂さんのXの投稿が好きでよく読んでいる。

 

去年の2月に、泉さんの「社会の変え方」を読んで、序盤でいきなり泣きそうになり、すぐにファンになった。

 

前から気になる存在ではあったけれど、幼少期の強烈な体験が、自分とも重なるところがあり、差別のない、優しい社会にしたいという思いでずっと生きてきて、明石市という、身近なところから社会を変えてきた人生がすごいと思い、尊敬するようになった。

 

 

wrl.co.jp

 

 

 

 

 

news.yahoo.co.jp

 

死にきれなかったおふくろは、「お前のせいや」と私を責めた。「お前が弟のぶんまで2人ぶん取って生まれてきたから弟は歩かれへんのや、半分返せ」と、無茶苦茶なことを言われたが、私は「返したい」と思った。

 

この記事の内容もすごい。

ここから、弟にない自分の能力を生かして、人一倍努力して、努力し続けて、社会を変え続けてきた。

 

 

「社会を変える」なんて、言葉にするのは簡単だけど、実際のプロセスは生半可なものではない。

 

何かを変えようとすると、必ずと言っていいほど抵抗にあう。特に行政のリーダーとして、権力を使ってそれを行おうとするとなると、なおさらだろう。お金の動きを変えるわけだし、法律を変えるにしたって、それを運用する現場の職員の負担は免れ得ない。

 

いろんな人に反発されて、それでも、貫いてきたのが、本当にすごいと思う。

 

 

 

弁護士時代から、社会で不利な立場に置かれて、苦しむ人たちの姿をたくさん見てきたのだ。自分は優秀で、エリートなんだから、そことかかわらずに生きていく選択肢なんて、いくらでもあっただろう。

 

だけど、理不尽を見つめ続けてきた。

彼の場合は、怒りのエネルギーにもなったんだろう。

 

 

 

自分は、怒るのが苦手だ。

もちろん制度とか、不平等とか差別とかには怒るけど、

たとえば仕事で誰かとぶつかったりしたときに、怒るというより、内省的になり、

傷ついたりしんどい思いをしてしまうことが多い。

 

それに、自分がこれまで能天気に生きていて、

人の痛みに無自覚であったことに気づくと、それだけでも辛い気持ちになる。

無力感を感じるのもしんどいし、罪悪感も生まれる。

 

だけど、それを引き受ける覚悟を持って、社会のしんどい部分を見続けたいと思う。

 

 

傷つき続ける覚悟をしよう。

そんなことを思った日だった。

 

割れないコップ、割れる茶碗

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Xに投稿するくらいの軽い気持ちでブログを書こう、ということで、

2本連続投稿。

 

今回はゆるめの話。

 

 

小学校のときに家族で週末にときどき行っていた、ベーカリーカフェのサンマルクでもらった景品のコップが、なぜかずっと僕の手元にあって、(そういえば、何度も引っ越したり、家族が離散したり、僕も下宿したりしているのに、自分が愛用していたわけでもないこのコップが手元にあるのが不思議だ)20年近くたった今でも、割れずに使えている。

 

 

一方で、気に入ったお茶碗は、雑に扱っているつもりはないのだけど、3年くらいで割れてしまったりして、割れたり、割れなかったり、不思議だなあと思う。コップの方が分厚いから割れにくいのかもしれない。

 

 

 

3年前に買った茶碗も、スープカップも割れてしまったので、先日新しく、茶碗と汁椀を買いに行った。

 

汁椀は、デザインのかわいらしい、プラスチック製のもの、茶碗はプラスチック製のは見当たらなかったので、茶碗の代わりに、茶碗サイズの小さなプラスチックのかわいいミニボウルを買った。木製も考えたのだけど、ちょっと高かった。

 

割れなかったら、10年でも20年でも使える。

 

 

大学1回生の頃にいった田舎の祭りのボランティアで、その数か月前にやっていたというハロウィンの景品で余っていたらしいプラスチックのミニボウルは、今も使っている。これも10年以上だな。

 

ハロウィンのかぼちゃのイラストが掘られている。軽くて使いやすいので、茶碗代わりにも、汁椀代わりにも使える。

 

食器に関しては、おしゃれとは程遠い生活をしているけれど、まあ、使って行くうちに愛着がわいていけば、それでいいのだ。

 

 

 

言語的、人種的にマイノリティになるということ。

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昨夜は一緒にPodcastをやっている友人と、それを聞いてくれている友人と3人でZOOMでおしゃべり。

 

そのなかで、マイノリティに対する想像力などの話にもなっていた。

僕は、「経験することがないと想像するの難しいから、マイノリティになる経験をしたらいいと思う」って言った。

 

この意見は賛否両論あると思うけど、僕はデンマーク語がろくにわからない状態で7年前にデンマーク留学をして、とあるクラスで自分以外ほとんどがデンマーク語で会話をしている環境に身を置いたときに、圧倒的なマイノリティ感覚を覚えて、

(ああ、日本にいて、日本語の話せない外国人だったり、他の人の話がわからない知的障害の人っていうのは、こういう感覚なのかも…)

と、体感しながら想像できたことが良かったと思っている。

 

 

そんなことを思い返していた日の夜に、さわぐりさんという、以前コペンハーゲン中央図書館で司書をされていた日本人の方が、日本語の本が急に勤め先の図書館から消えて、その問題に向き合ってきた話をnoteに書いておられた。

 

 

note.com

 

 

マイノリティとして、不利な立場で生きている人が、こうやって行動に移すのは勇気がいったことだと思うし、それでもいろんなエスニックマイノリティのために動いてこられたのが尊敬するし、日本人として、感謝の思いもある。

 

 

日本人で、他国でエスニックマイノリティとして生きている人の語りに触れることも、他の(日本に生きる外国人も含め)マイノリティの立場におかれた人の立場を想像するうえで役立つと思う。

 

 

もちろん、映画見たりするのもいいよね。

昨日友人に教えてもらった、クルド人の映画も必ず見ておこうと思う。

 

mysmallland.jp