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まとまらないブログ

京都に住む大学生の覚え書き

久しぶりに益田ミリさんの漫画を読むとほっこりする。

とりとめもない話です。

 

世界は終わらない

 

 年度末に暇な時間があったので、本棚の本の整理をしていたら、少し前に買った益田ミリさんの「世界は終わらない」を見つけた。形式は四コマ漫画だけど、一冊を通して物語が続いていく、とっても楽に読める本だ。益田ミリさんは女性を主人公にした漫画が多いのだけれど、この本の主人公は男性だ。

 

www.gentosha.co.jp

 

 主人公の土田さんは、好きな本に囲まれた書店員の仕事をしているがしばらく彼女のいない自分を、結婚して子供もいる友人たちと比べてしまい、「自分の人生はこれでいいのか」と、ひとりになると考えてしまう。

 

 本人は悩むことも多いようだけど、土田さんと周りの人たちとのかかわりはとても温かいし、土田さん自身もの人柄もとても魅力的に描かれている。書店に来れなくなったお客さんの家に休み時間に本を届けたりするような土田さんの行動にはほっこりするし、合コンで知り合った異性といるときの自分のふるまいを後で恥ずかしく思ったり、反省したりする姿はなんとなくかわいくて、応援したくなる。自分の勤める書店をよりよい空間にできないかと考えたり、お客さんに勧める本を何にするか悩んだりしている姿もいい。

 

〇〇な本フェア

 この漫画の中で、土田さんの勤める本屋さんで、〇〇な本フェアを何度かやっている。「無人島に持っていきたい本」のようなテーマを決めて、書店の一角にあてはまる本を並べるというものだ。実際の書店や図書館なんかでもよくやっていることだと思う。

 

 書店で働いていない僕は、よっぽど興味をひくテーマでもない限りそういったコーナーで足を止めることはないんだけど、書店員さんになった気分で〇〇な本を考えるのはおもしろそうなので、ちょっとやってみた。

 

 

あったかい本

 土田さんの働く店の店長やその他の登場人物は『赤毛のアン』や『窓ぎわのトットちゃん』をあったかい本として選んでいる。窓ぎわのトットちゃんは僕は大学に入ってから読んで大好きになった本で、本当にとってもあったかいと思うんだけど、あえて他の本を選ぶとしたら、重松清さんの『とんび』とか、漫画だけど鈴ノ木ユウさんの『コウノドリ』なんかを挙げる。あと、虐待を描いた話で少し暗い部分もあるけれど、中脇初枝さんの『きみはいい子』も読後はとてもあったかい気持ちになれる本だ。

 

 家族や幼少期の境遇でしんどさを抱えた登場人物が、人との支えあいの中で少し明るい気持ちになっていけるような本が、自分にはあったかく感じられるのかもしれない。

 益田ミリさんの本も、結構あったかい本だと思っている。

 

 

無人島に持っていきたい本 

 4年前の夏に瀬戸内海の無人島にいったことがあって、その時は一泊二日でサークルの先輩たちとキャンプをするだけだったから本は持っていかなかった。無人島で本を読む気になるかどうかはわからないけど、もしいつ帰れるかわからないような状況で無人島に本を持っていくとしたら、そこそこの長編小説なんかがいいかもしれない。けど持ち運ぶのもめんどくさいか。

 逆にエッセイを持っていって、自分の置かれた状況とは全く違う人たちの生活を想像するのも、気が紛れていいかもしれないとも思う。最近読んでる本だけど、小川糸さんの「たそがれビール」なんかを読んで、ヨーロッパの生活にあこがれを抱くのもいい。

www.gentosha.co.jp

 

 

 こういうのを読んで帰ってからやりたいことをあれこれ妄想するのも、気がまぎれるしいいだろう。不自由なときほど人は自由を強く求めるし、この本を読んだ後で無人島から帰ってこれたら、すぐにヨーロッパに飛び立つかも。

 

 

 

本が読みたくなる本

 そんなフェアはこの漫画の中ではなかったんだけど、本が読みたくなる本って結構好きだ。

 

 最近、趣味で本を読むことが少なくなっていた。4月からの留学に向けての情報収集でデンマークについての本を読むことはあって、まあそれも半分は趣味っちゃ趣味なんだけど勉強の意味合いもあったから、完全に娯楽目的で本を読むことはなかった。最近本棚を整理して、読みかけの本とか昔読んで良かった本なんかが出てきてまた読みたいなあと思い、最初に手に取ったのが『世界は終わらない』で、その中におもしろい本がたくさん紹介されていて、またいろいろ読んでみたいなあという思いが募った。

 

 『ダ・ヴィンチ』のような、本を紹介する雑誌もいいけど、好きな著者が本の中で紹介する本って、特に読みたくなるよね。

 

 久しぶりに時間があったので、ブログを書いてみました。

益田ミリさんの本、もっと読んでみよう。

 

 

 

デンマークに留学する前に、日本と北欧について僕が思っていること①

 

今日はとても寒くて多くの地域で雪が降ったみたいですね。

皆さんの地域ではどうでしたか?

 

僕の住む京都の左京区では、朝カーテンを開けたら外が真っ白でした。

午前中にパソコン教室の講師のバイトがあったので滑らないように気を付けながらクロスバイクで教室に向かったのですが、受講生が誰も来なくて休講になりました(笑)

 

 

おかげで今日は1日家でのんびりできたので、またブログを書いてみようかなと思います。

 

今回は4月から留学予定のデンマークと日本について興味を持ったり、よくひとりで考えたりしていることを簡単に書きます。

これから少しずつ分けて書いていこうと思います。続くかどうかは不明ですが。

 

福祉関係を中心に書くつもりでいて、内容が偏ると思うので、他の分野についても知りたいという方は、下のニュースメディアなんかをご覧ください。一橋大学の現役学生が作ったものです。すごい。

 

epmk.net

 

 

北欧の福祉に興味を持った最初のきっかけ

僕が最初に北欧のことを調べたのは、小学校の社会の自由研究でした。

理由は全然思い出せないけど、なぜかデンマークについて調べてみようと思い、模造紙にデンマークの地図や人口、酪農がさかんなことなどをまとめていました。

 

 

 

次に北欧に興味を持ったのは10年以上たって大学生になってからです(笑)

 

幼いころに母を亡くし数日間乳児院に預けられていた僕は、親元で暮らせない子供の育つ環境(児童福祉施設や里親など)に関心がありました。大学の図書館などを利用していろいろ調べているうちに、日本では里親が少なくそういった子供が施設に入ることが他の国に比べて圧倒的に多いことを知りました。

 

日本の児童福祉施設にボランティアに行ったこともあります。

職員の割に子供の数がかなり多く、統制をとるために職員が厳しい指導をしているのが印象的でした。多くの子供が荒れて職員が心労で施設にこれなくなったという話も聞きました。僕が少しだけ教えた高校受験前の子どもたちは熱心に勉強をしていましたが、日本では施設出身者の大学進学率が約11%(2015年)と、家庭で育つ子どもとの差は大きいです。

http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/0000081379.pdf

 

 

デンマーク児童福祉施設

では他の国はどうなのか、里親の割合が日本より多いとはいえ、当然他の国も児童福祉施設はあります。他の国の施設はどういった状況なのかとネットで調べていて見つけたのが、「デンマークの児童養護」と題した内本充統さんという方の論文でした。

ci.nii.ac.jp

 

この論文によれば、デンマークでは12歳以上であれば子どもたちが自分に示された措置について意見を述べることができると法で定められていて、親元で暮らせない青少年で施設での生活を拒むものに対しては自治体が民家のアパートを借り上げて一人暮らしをさせ、週に何度か職員のサポートを受けながら生活するという形態も増えているようです(10年前の話です)。

筆者が訪れたEgevang(イーバン)という大規模施設では子どもたち全員に個室が与えられており、施設内の学校での活動は個別活動が主になっているようです。

(日本では学校では当然集団行動が基本ですが、僕が見学した施設では放課後の時間でも集団活動が多かったです)

 

また、施設によって差はありますが、入所児童と同数の職員がいるところもあるようです。

(日本では児童にあたる年齢の子ども5.5人につきひとりの職員の人件費が施設に割り当てられる)

児童福祉施設の設備及び運営に関する基準

 

 

このようにデンマーク福祉施設は日本よりも圧倒的に手厚いサポートで、子供たちの意見が尊重される環境だと知って驚き、できることならこの論文の筆者のように自分もデンマークの施設を見学してみたいと思いました。

 

 

このことをきっかけにデンマークについて調べていくと、学費や医療費が無料であったり、すべての高齢者に手厚い年金が支給されたり、子育て世代へのサポートが充実していたりと(その代わり国民が稼いだ額の7割が税金として徴収される)、驚くことがたくさんありました。

 

デンマークでも高齢化は進んでいるし、共働きの増加による育児との両立の困難などもあります。問題が起きるたびに政府は国民の意見をくみ取り、改善策をとってきました。

 

北欧諸国は今日本で福祉以外にも環境政策やIT、農業など様々な分野で注目を集めていますが、日本が抱える問題を先に経験し、解決していった国々だと言えると思います。

 

次がいつになるかわからないけど、これから何回か、僕がおもしろいと思う北欧諸国と日本の違いや共通点などについて書いていこうと思います。

 

それではまた!

ミャンマーで迫害を受ける民族について

 

「こうへい(僕の名前)、どうして日本ではシリアのニュースやミャンマーの宗教危機に関するニュースがないの?」

おととい、マレーシアの大学で日本語の講師をしている友人からメッセージが届いた。

 

4年前の夏、東南アジアを旅行していたときに知り合ったマレーシア人の彼は、日本のアニメや漫画に詳しい、大の日本好きだ。オタクを自称しているが、日本人のオタクよりも日本文化に関する知識は豊富なんじゃないかと思う。

彼の関心はアニメや漫画だけでなく、日本のドラマ、映画、Jpopとかなり幅広い。

 

 

 

 

旅行中にボボボーボ・ボーボボの話で日本から来た僕らを大爆笑させた彼は、日本語で話をするのがとてもうまくて、情に厚い。過去に彼に出会った日本人の多くがきっと彼のことを好きになっただろう。

 

最近は関西弁にはまっているようで、チャットで僕と関西弁で会話をすることもある。

 

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そんな彼から正月に上に書いたようなメッセージが届いた。

彼からのメッセージはたいてい日本語の微妙なニュアンスや方言についての質問なのだが、今回は違った。

 

 

シリアのことは多少は知ってるけど、ミャンマー?宗教危機?なんの話だ?

 

聞けば、ロヒンギャ族というイスラム教徒の民族がミャンマーで迫害を受けているらしい。

 

「村が燃やされ、男たちがみな殺され、女性はレイプ、老人子供関係なく殺されている。殺したのは仏教徒のお坊さんだ」と彼は言う。

同じイスラム教徒としてとても悲しんでいるようで、ノーベル平和賞をもらったのにこの問題に対処しようとしないアウンサン・スー・チーに憤っていた。

 

 

のちに、お坊さんが子供を燃やしている衝撃的な写真も送られてきた。

 

 

このことは僕にとって二重の意味でショックだった。

今現在、日本からそんなに遠くないアジアの国で想像を絶するような民族迫害が起きていること。

そして、この友人に教えてもらうまで自分がロヒンギャ族という民族の名前さえも、聞いた覚えがなかったということ。

 

自分は普段大学の図書館で新聞を読んでいるし、大学に行かない日はスマホでニュースをチェックしている。

「日本のマスコミの報道は偏ってるから、海外メディアのニュースを読むようにしたほうがいい。」

以前友人が当たり前のように言っていたことの意味を、僕はこのとき初めて、身をもって感じた。

 

だからと言って、日本の新聞が報じないことを嘆いてばかりいても仕方がない。

インターネットがあるんだから、自分で調べてみよう。

そしてどうせならまとめて、ブログで発信してみよう。

 

 

 

ロヒンギャ族について 

 

 ロヒンギャ族ミャンマー西部のラカイン州に多く住み、バングラデシュの公用語ベンガル語方言を話す。政府推計で130万人いるとされるが、仏教徒が多数を占めるミャンマーでは少数のイスラム教徒であり、ミャンマー内ではバングラデシュ移民とみなされて国籍を与えられていない。2012年にラカイン州仏教徒との間で衝突が起き、多くの人が避難して周辺国に船で漂着するなどしたようだ。

ロヒンギャ族とは - コトバンク

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ロヒンギャ族を迫害していると友人が話したラカイン州に住む仏教徒は、ラカイン(アラカン)族と呼ばれる。ラカイン族ロヒンギャ族はどうして対立するようになったのだろうか。

 

 

(以下、引用)

かつてロヒンギャ族は東インドのベンガル地方(現在のバングラデシュ)に住んでいたが、15世紀から18世紀にかけてビルマ西海岸に栄えたアラカン王国に傭兵や商人として移ってきた。イスラム教徒のロヒンギャ族仏教徒のアラカン族は平和に共存し、王朝はベンガル湾イスラム諸王国との貿易推進のため、イスラム教徒の名前を騙ることさえあった。

 

 19世紀前半にはインドから侵入した英国の植民地政策によって、仏教徒地主が継承してきた農地がイスラム教徒の労働移民にあてがわれた。このことによって仏教徒イスラム教徒の対立構造が顕著になる。

 第2次大戦で進軍した日本と英国は、日本側が仏教徒、英国がキリスト教徒やイスラム教徒と、宗教別に構成された軍を創って戦わせたことから、両者の対立はもはやぬきさしならぬものとなった。

 

 ビルマ族やアラカン族など仏教徒が主導権を握った独立後、ロヒンギャ族は窮地に立たされるが、それでも、1950年代のウー・ヌ政権下では市民権を与えられて特別行政区を安住の地とするが、62年に軍事クーデターで政権を奪ったネウィン将軍施政下の82年に制定された国籍法によって国籍が剥奪され、無権利状態に置かれることとなった。

 さらに、88年の民主化運動や90年の選挙で、ロヒンギャ族アウンサンスーチー氏らの民主化運動を支持したことから、軍事政権による財産没収や強制労働などの弾圧がいっそう厳しくなり、現在に至っている。

www.alter-magazine.jp(引用元)

 

 

なんと、現在に至るラカイン族ロヒンギャ族の対立の歴史には日本も関係していたのだ。それなのにこの問題を世界史の授業で習うこともなかったし、マスコミもめったに取り上げない。いや、日本が関係しているからこそ、そうなのかもしれない。

 

ちなみにマレーシアの友人は、日本のマスコミがこれをほとんど報じない理由は、

ミャンマー日系企業が多数進出しているために、日本の経済にとってこの報道が不利になる可能性があるからだと分析していた。

 

 

日本に住むロヒンギャ族

 さらに調べてみるとどうやら、一部のロヒンギャ族群馬県館林市に住んでいるらしい。

 

www.tokyo-np.co.jp

www.huffingtonpost.jp

 

その他、ロヒンギャ族に関する最近のニュースなど

 

 

ミャンマー政府、マレーシアへの労働者派遣を一時中断 ミャンマーニュース

 

 

 

 

2016/12/13

www.cnn.co.jp

 

 

2016/12/15

www.huffingtonpost.jp

 

 

2017/01/02

news.livedoor.com

 

マレーシア人の友人は仏教徒ラカイン族による迫害といっていたが、軍による暴行もかなりひどいようだ。ちなみに最後のニュースはニューヨーク・タイムズには載っていた。

 

元日のイスタンブールの事件については大きく報じられていたのに、こういったニュースが新聞に載らないのはどうしてだろう。

 

ムスリムの人たちが日本に不信感を抱かないように、日本のマスコミの皆さん、どうかこういった記事も取り上げてください。よろしくお願いします。

 

急がない生き方のススメ

 

 

 

 『パパラギ』というすてきな本がある。

今から百年ほど前、南太平洋の島に住むツイアビという人が、世界で最も「進んでいる」ヨーロッパを訪ね、そこで見たこと、感じたこと、考えたことを、帰ってから島の仲間たちに話してきかせた。その話をまとめたのがこの本だといわれている。

題名の「パパラギ」とは、島のことばで白人とか、ヨーロッパ人とか、文明人とかを意味する。パパラギのくらしぶりや考え方にはツイアビさんをびっくりぎょうてんさせることがたくさんあった。なかでも彼が驚いたのはパパラギが「時間」に対してどういう態度をとるか、だった。

 たとえば、ツイアビさんはこういっている。

「パパラギは時間について大騒ぎするし、愚にもつかないおしゃべりもする。といって、日が出て日が沈み、それ以上の時間は絶対にあるはずはないのだが、パパラギはそれでは決して満足しない」

 ツイアビさんの報告によれば、パパラギはいつも時間が足りないことを嘆き、天に向かって「もっと時間をくれ!」と不平をいう。彼が見たヨーロッパにはひまのある人はほとんどいなかった。誰もが、「投げられた石のように人生を走っ」ていたという。

(中略)

で、そんなことをしていて、結局、誰が得をするのだろう?いや、誰の得にもなりはしない。ではなんで?

ツイアビさんは結論した。これは伝染病の一種に違いない、と。

彼をそれほどびっくりさせたヨーロッパは、まだ人々が馬車で行き来していた時代だった。

 

辻新一「『ゆっくり』でいいんだよ」

 

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いま、脳は、軽視できない警告を発し続けています。わたしたちは働きすぎだ、と。過労によるストレスを負い続ければ、鬱、心臓病、脳卒中、がん、その他多くの疾病を発症するリスクが高くなります。

 それにもかかわらず、私たちは健康を損なうリスクを負いながら、とくに欲しくもないものを買うためにとくに楽しくもない仕事に精を出しているのです。それが自由市場資本主義です。政治家やCEO(最高経営責任者)や銀行経営者にとっては、人類が成し遂げた社会組織の最高の形だとか。

 テロの恐怖に脅えることはあっても、肥満を恐れる人はそれほど多くありません。とはいえ、統計的には、テロよりも肥満のほうが命に対する危険は大きいのです。ストレスや過重労働がどれだけ寿命を縮めることになるのかは不明ですが、常に軽いストレスを感じながら、一日中、机に向かって仕事をすれば、肥満に陥ることはわかります。

もし、一日何時間かのんびり過ごせば(木陰で毛布を広げてその上に寝転び、おいしいワインを飲みながらであればもっといいでしょう)寿命が何年か延びるとしたら、わたしたちはきっとそうするのではないでしょうか。

 

Andrew Smart「できる人はダラダラ上手ーアイデアを生むオートパイロット機能」

(原題) "AUTO PILOT THE ART&SCIENCE of DOING NOTHING"

 

 

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自殺者約二万七〇〇〇人、引きこもり約七〇万人、うつ病患者数約九五万人…。こういた数字について、僕たちに何が言えるだろう。日本人はまだまだがんばるのが足りないのだろうか。それとも、がんばりすぎ?

 がんばっても、がんばっても経済はうまくいかず、経営もうまくいかない。もう何十年もうまくいかないのだから、そろそろ、がんばること自体を考え直したほうがいいいのではないだろうか。そしてこんなふうに問うのだ。

「がんばる経済」は確かに「がんばらない経済」より、優れているのか?

「がんばる経営」のほうが「がんばらない経営」より、上等だというのは本当か?

「がんばらない社員」が「がんばる社員」より、劣っているというのは本当なのか?

みんなで一度大まじめに考えてみるべき時が来ていると、僕は思うのだが。

 

辻信一 「『しないこと』リストのすすめ」

 

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数日前、風邪をひいた。

 

 

ゆっくり家で休もうと思い、暇つぶしにのんびり読めそうな本を探そうとして図書館に行き、偶然、辻さんの「『ゆっくり』でいいんだよ」というタイトルの本を見つけた。

 

風邪をひいた週は、バイト続きで、しかも卒論のこともやらないといけないから休む暇がなかった。忙しくして体を酷使したせいで風邪をひいてしまったんだと思い、反省の意味でもこの本を読もうと、借りてみた。

 

読んでみると、今まであまり考えてこなかった「時間」についての考察がたくさんあって、たくさん気づくことがあり、おもしろかったので、関連書もいくつか読んでみた。

 

その中で特に印象的だった部分を引用したのが上の三つなんだけど、皆さんはどう感じただろうか

 

 

 がんばることと、忙しくすること

 

日本人の僕たちは当たり前のように小さいころから「がんばれ」と言われ、「がんばろう」と声をかけてきた。けれども、がんばるというのは、今よりもペースを速めること、もっと言えば忙しくすることに他ならないのではないか。

 

これは、辻信一さんが著書の中でよく指摘することだ。

 

 

僕たちは小さいころから試験で点数をつけられて競わされ、他の人や、あるいは過去の自分よりも上にいくことをよしとされてきた。(念のためにに言っておくと、これは決して先進国で共通ではない。北欧には中学まで学校で試験をしてはいけないというルールを設けた国もある。)

試験で高得点をとるためには、試験日に間に合うように、急いで勉強しないといけない。のんびりしてたら試験範囲を網羅できないかもしれないのだから、忙しくしないといけなくなる。

 

 

学校を卒業して就職すれば、おそらく多くの企業ではより良い成果を上げることを求められる。決められた期限のなかでたくさん成果を出そうとすれば、のんびりしてはいられないと感じるだろう。

 

もちろん、内心だらだらしたいと思っている人は多いだろうし、できる限り”こっそりと”手を抜いたり、怠けたりすることを意識的に、あるいは自然にしている人はたくさんいるだろう。そういう人が多数派だと信じたい。

 

けれどもいまだに、少なくとも社会規範としては、日本人はがんばることを美徳として信じて疑わないんじゃないかと思う。

 

 

そういう僕も、勉強面でとてもスパルタな人に育てられたのもあってか、ついついがんばってしまう、怠けるのが苦手なタイプの人間だったなあと思う。

 

少なくとも大学まではがんばって勉強してきて、1浪の末、京都大学に合格したし、

大学でも、勉強以外にもサークルや生活費を稼ぐためのアルバイトなどに精を出してきた。

浪人までの期間、同世代の他の人たちと比べて多くの時間を勉強に割いてしまっていることを自覚していた。

だからこそ大学に入ってからはそれ以外のことをたくさん経験したいという気持ちがあって、かなり貪欲に、多くのことを短期間に経験してきたように思う。

つまり、大学に入っても、やることが勉強から他のことに広がっていっただけで、結局同じように忙しい時間を送ってしまっていた。

 

 

けれども、いろんな本を読みながらまじめに考えれば考えるほど、がんばったり、忙しくしたりすることはよくないことなんじゃないかと思えてくるのだ。

 

 

個人の話

僕は大学で臨床心理学を専攻してきた。

その関係で、臨床心理士精神科医の書いた本などをたくさん読んでいたが、

のんびり自分のペースを大事にして生きることを進めている本がかなり多い。

 

それを読むだけでも、多くの現代人が急がされ、自分でも忙しくしてしまい、そのせいでストレスが溜まりすぎて精神疾患に陥ってしまっているのだ、ということをひしひしと感じる。

 

日本という国は、大学生へのプレッシャーも強いんじゃないかと思う。以前、京大のカウンセリングルームの人の書いた留年についての記事がネットで話題になった。

留年について-カウンセリングルーム(京都大学)

 

自由の学風とか、のんびりした雰囲気がひとつの特徴でもあった京大の学生でさえも、

「ストレートで就職しないといけない」というプレッシャーを感じずにいられないほど忙しい世の中になっているとしたら、それはかなり嘆かわしいことだと思う。

 

 

みんないったい、何に急いでいるのだろうか、そして、何に急がされ、がんばらされているのだろうか?

世間?教育?マスコミ?家族?それとも、自分自身?

 

忙しくしないと落ち着かない、暇にしてると不安になるとしたら、その気持ちに従って忙しくする前に、どうしてそう感じてしまうのか、一度落ち着いて考えるべきなのかもしれない。

家族を養わないといけないとか、借金を背負っているわけでもないのに、忙しく働かないと生活できないとしたら、少し生活の水準が上がりすぎているのかもしれない。お金でしか買えない、本当に必要なものってなんだろうか。

 

 本当に必要なもののために、必要な分だけ働いているのだろうか。

 仕事が好きな人はたくさん働けばいいかもしれないけど、働きすぎると体に悪いだけでなく、稼いだ金でたくさんのものを買って消費を増やせば、残念ながらそれは、限られた資源の無駄遣いにもつながってしまいかねない。

 

 

社会の話

 

「個人は忙しくしないほうが幸せになれるのかもしれない。けれど、労働年齢人口が減少しているんだから、みんなが働くペースを下げてしまうと、社会が立ち行かなくなってしまうんじゃないか」

 

そんな心配をするような責任感の強い人が日本にどれだけいるかわからないが、そういったまじめな人にこそ、知ってほしいことがある。

 

過剰による貧困

昨年話題になった新書「ポスト資本主義」の著者である広井良典教授は、その本のなかでこんなことを言っている。

 

「生産性が最高度に上がった社会においては、少人数の労働で多くの生産が上げられることになり、人々の需要を満たすことができるので、その結果、おのずと多数の人が失業することになる」ということである。

(中略)

まさに現在の先進国で生じている事態である。

 

広井さんは、物資の不足が貧困を意味していたかつての時代と比較して、生産性が上がったことによって必要な労働の量が減り、その結果失業者が増えて、たとえば若者の生活保護受給者が増えているような今の日本の状況を、”過剰による貧困”と表現している。

 

この問題の解決策として広井さんが著書のなかで紹介しているのが、近年のヨーロッパにおける時間政策および、広井さん自身が考案した人生の中のワークシェアリングの考え方である。

時間政策とは、人々の労働時間(正確には賃金労働時間)を減らし、その分を地域や家族、コミュニティ、自然、社会貢献などに関する活動にあて、つまり”時間を再配分”し、それを通じて全体としての生活の質を高めていこうとする政策だ(OECD(2007))

 

広井良典 「ポスト資本主義」

 

また、人生の中のワークシェアリングとは、学校(大学)卒業後から定年までの間ずっとフルタイムで働き続けるのではなく、途中数年間、たとえば余暇に使うとか、大学院に入りなおすといように、余暇と労働を織り交ぜた人生を歩むことである。 

 

 

前者は一日、あるいは一年といった短いスパンのなかで余暇の時間の割合を増やすことで、

後者はかつてより長くなった人生のなかで、余暇にあてる時間をすべて老後に回すのではなく、若いうちから少しずつ余暇を楽しみ、労働とのバランスをとっていくということだといえるかもしれない。

 

 

このようにして、限られた仕事をシェアしていく必要性を広井さんが訴えているように、一部の人が長時間働いて富を蓄積すればするほど、他の人に仕事が回らなくなり、格差は広がってしまう。

つまり、社会全体のことを考えても、働きすぎはよくないと言える。

 

 

 

残念ながら、時間政策のような画期的な政策をまだまだ日本政府は取り入れようとしないだろう。

また、北欧諸国のように、若者向けの社会保障が充実していないから、仕事をしばらくやめて余暇を楽しんだり、仕事をやめて大学院に進んだりするのは経済的な意味で難しいことかもしれないけど、貯金をためたり、奨学金を利用するなどすれば工夫次第で可能なことだと思う。

 

 

こんなことは、借金もなく、養う家族もいない人間の甘い考え方なのかもしれない。

 

けれども逆に言えば、そういう人間が不必要に無理して働くことは、もっと大変で本当にお金を必要としている人間から仕事を奪っているのかもしれないのだ。

 

 

 

都会と田舎では時間の進むペースが全然違うというから、今の世の中でも

みんなが忙しくなってきてると一概には言えないだろう。

 

だけど、もし、最近あわただしくなってきたなあと感じるのならば、

がんばること、忙しくすることが本当に正しいのか、

怠けること、休むこと、のんびり過ごすことは本当にいけないことなのか、一度ゆっくり考えるのがいいと思う。

 

 

 

 

all for allの意味について

 

 

"all for all"と書かれた民進党のポスターを皆さんは見たことがあるだろうか。

 

 

民進党前原誠司さんの出身地である京都では、彼の顔写真に”all for all”の文字が添えられたポスターを最近よく見かける。

他の民進党議員のポスターにもこの言葉が載っているのかどうか僕は知らないので、

この記事が京都ローカルなものになってしまう可能性は否めない。が、書こう。

はてなって京都の会社やし。

 

 

 

そもそも選挙ポスターなんて、注目する人の方が少ないのだろうか。

 

僕は公務員試験の勉強をきっかけに政治に興味を持ちはじめ、街中の政治ポスターにもよく目が留まるようになった。

どの政党のポスターも、何の具体性もない無意味なポスターやなあと思っていつも見ているのだが、その無意味さが逆に滑稽でおもしろくなる。

 

"all for all"もまた、ラグビーの合言葉をもじっただけやんけしょーもな!と思って見ていたのだが、今日たまたま京大の図書館で見かけた本の中に同じことばが出てきて、その意味にうなったのでちょっと紹介しよう。

 

 

 

イラストが異様に多い政治の本

「18歳からの格差論」という本をご存じだろうか。

store.toyokeizai.net

 

僕の通う京都大学のメインの図書館には少し前に、入庫したての本を並べる本棚ができた。

だいたい一か月以内に入庫した本が入庫した日別に分かれてずらりと並んでいる。

お目当ての本を探す前に、そのコーナーにおもしろそうな本がないか、ふと立ち止まって覗いていく人は多い。

 

僕もそのうちの一人だ。

 

社会保障や格差問題には以前から関心があったので、今日たまたま並んでいた「18歳からの格差論」を手に取って開いてみる。今年の6月に出た本らしい。

 

18歳からのってことは一応大学生以上向け、もしくは選挙権持った年齢以上向け、ということなんだろうが、それにしてはイラストが多いし、それに比べてページごとの文字数が少ない。

「10歳からの~」でもいいんじゃね?などと思いつつ、目次を見る。

一章の一節目のタイトル「格差を是正したいですか?」に惹きつけられて、じっくり読むことにした。読んでみると、ああこれは18歳からやな、と思うような内容もたくさんあった。

 

 

目次

18歳からの格差論 | 東洋経済

 

 

普遍的な社会保障が必要な理由

 

この本の筆者は慶応大学の経済学部教授で、専門は財政社会学らしい。(そんな名前の学問分野があることを僕はこの本を読むまで知らなかった)

 

本で書かれている内容を僕なりに4行で無理やり要約してみると、

1,自分と異なる立場の人のために税金を払うことに寛容でない人が今の日本には多く、

2,一部のお年よりが子育て世代への保障に反対したり、若者がお年寄りの年金を減らすべきだと考えるような世代間対立もある。

 

3.経済の悪化に伴う収入減により中間層の税負担感が高まり、生活保護などの低所得層対象の給付への視線も厳しくなっていて、増税への反対意見は強い。

 

4,そういった状況のなかで税による格差是正を進めるためには、中間層や高所得者にも利益が及ぶ社会保障を作るべきだ。そうすれば税の恩恵を受ける経済的弱者への嫉妬は減り、社会の分断は和らぐだろう。

 

 

というような内容だ。

(嘘だと思ったら是非読んで確かめてほしい。)

 

 

そして、4の話をするときに”all for all"という言葉を使っていたわけだが、もしやと思ってネットで筆者の井出さんを調べたら、やはり民進党と関係があった。

 

どうやら、今の前原さんのブレーンを務めているらしい。

 

www.nikkan-gendai.com

 

 

 

受益者を増やす社会保障について、皆さんはどう感じるだろうか。

たとえば北欧では大学までの学費が無料だったり、失業保険や老後の年金、子育て給付など、あらゆる世代への社会保障が充実していて、その分税金は高いが国民の満足度は高いと言われている。

それに比べて、いや、OECDのほとんどの国と比べて日本は、税金が圧倒的に安く、社会保障額も少ない国である。

 

僕は年金を受給できていない70代の女性と以前から仲良くしていることもあり、上記のような普遍的な社会保障が日本にも必要やなあと思っていた。なので井出さんの意見には大いに賛成している。

寄付やNPOだけでは格差はなかなか縮まらないし、受益者への嫉妬も消えないと思うのです。

 

とはいえ、世論の多くが増税延期に賛成してる今の日本じゃ実現は難しいんやろうなあ。

 

 

社会保障についての問題意識を持った人間が、社会にどんな風に働きかければいいのかよくわからず、とりあえずブログでも書こうと思った次第です。

 

 

「18歳からの格差論」の内容と似たようなことが書かれてる井手さんの記事を見つけたので、それをシェアして今日は終わりにしよう。

news.mynavi.jp

 

 

 

 

9月3日に東京に行った話②ユニークなお金の使い方

 

前のブログを書いたとき、文章を書くモチベーションが上がっていて「短いのを何度か、しばらく続けて書きます」などと言ってたのに、2本目さえ書けないまま3週間以上がたってしまった。

 

kikikiron.hatenablog.com

 

久々にブログの閲覧数なんかを見てみると、誰にも読まれていない日があって、ああ、やっぱ書かないとこうなるんだなと、当たり前のことを確かめたような気分になった。

 

 

久しぶりなので最近の自分の状況の書いておくと、来年度以降の就職はいまだに決まっていなくて(来年3月に大学を卒業するつもりでいる)、20代の残りの期間、どんな場所でどんな働き方をするのがいいかなどを、普段と違う場所で働いたり、いろんな人に話を聞いたりしながら考えているところだ。

 

新鮮な経験をしたり、おもしろい話を聞けたりすることが多くてとても充実した日々を過ごしているんだけど、自分でもいろんなことを考えているうちに、様々な方向に思考が飛んで行く。

頭の中で考えている内容が日々どんどん変わっていって、少し落ち着かない。

こういうときこそ、毎日少しでも文章を書いたほうがいいのかもしれないと思う。

 

忘れたくないことも多いし、まとめて記憶しておけば、どんな経験でもあとで何かしらに生かせるような気がするから、とりあえず、物理的に不可能じゃない日は、1日30分程度、ブログに向かおうか。全部を公開するつもりはないけれど。

 

そうそう、最近数か月ぶりに話した好きな先輩から、普段人とのコミュニケーションの中で自分が感じたことを、2年間書き続けているという話を聞いた。

それを通して、自分という人間の輪郭を描き出し、自分がどういったことにストレスを感じ、あるいはどういったコミュニケーションに居心地のよさを覚えるのか、といったことを考えながら、人間関係に関する抽象的な思考を鍛えているらしい。

 

自分も数か月くらいは、文章を書くことを続けられたらいいなと思う。

 

 

9月3日に東京に行った理由

 

前のブログには、東京に行って考えた内容のうち、最も書きたいと思ったことを一切書いていなくて、そもそも東京に行った理由さえ、載せていなかった。

 

僕がこの日に東京に行った目的は、数年前から応援してきた、Living in PeaceというNPOのミーティング見学に行くことだった。

児童福祉施設の建て替えの費用を集めるなどの活動をしている団体で、詳しいことは以下のリンクまたは本(上:ホームページ、下:このNPOについて詳しく書かれた書籍)を読んでもらえたらと思う。

 

認定NPO法人Living in Peace

働きながら、社会を変える。|書籍|英治出版

 

 

東京で土曜日の昼に行われるミーティングの場で、上の本を読んだときからファンだったこのNPOの人たちと話すことができ、長い間(といっても3年くらいだが)あこがれていたその代表の方にもお会いすることができた。

 

ミーティングを見学し、メンバーの方々と直接話すことを通して、信頼できる団体だと確信したので、今後も苦ではない範囲で(学生の間は月1,000円だけ)定期的な寄付を続けることに決めた。

 

 

ミーティングの場から出て、帰る方向が一緒だったメンバーの方とも別れたあと、しばらく東京の街を散歩することにした。

 

とてもスピーディーに議論がなされるミーティングの場にいたせいで、黙って見学するだけだった自分も頭がフル回転していたし、あこがれの団体の人と話せた興奮が強く残っていた。散歩をしようと思ったのは、そんなヒートアップした頭をクールダウンさせるためだ。

 

興奮を冷ましたいときや、逆にネガティブな感情に襲われたときには、僕はよく外を歩く。ゆっくり足を動かすことで、頭に上った血を全身に戻せるような気がするし、遠くを見ながら体をほとんど無意識的に動かすことは、気分をほどよくポジティブにしてくれる。

 

NPOで今こういった取り組みをしてて、本業をしながらも空いた時間で子供の貧困を少しでも削減するために一生懸命働いている人がいる。まだ本業も決まっていない自分は、いったいどういった職場で働くのがふさわしくて、社会に対してどういった働きかけをすることが可能なんだろうか」

「社会問題にアプローチするにはやっぱりお金や、お金についての知識が必要で、そういった知識を実践的に得られる仕事に就いたほうがいいんだろうか。お金さえあれば、たとえ時間がなくても寄付という形でNPOの取り組みを応援することはできる。けれど自分には、金銭的な支援をするよりも現場でより直接的に働きかけるほうが向いてるような気もする…」

 

 

今回はミーティングの時間があまりにも刺激的だったせいで、ずいぶん歩いたけれど興奮はさめなくて、僕は人通りの多いある駅の前を通り過ぎようとしていた。

 

 

駅前では、黄色い上着を着た学生が、別のNPO法人の寄付を呼び掛けている。

聞けば、国際的な人道問題にアプローチしている世界的なNPOの、日本支部のメンバーらしい。

国際系のサークルにかつて所属していたこともあって、海外の社会問題にも多少の関心を持っている僕にとっては、そのNPOはとても有名な団体に思えたのだが、それでも月々1000円以上の寄付をする会員は、欧米の国々に比べて日本ではとても少ないのだと、その大学生は少し悲しそうに話していた。

 

いろいろ話を聞いてから、頑張ってくださいと声をかけて去った。

 

「やっぱり日本人にはまだまだ寄付をする人が少ないんだろうか。けれど日本にはすごい数のNPOがあるから、たまたま一つのNPOに寄付が集まらないからってそう決めつけるのはおかしいな。」

 

今年の正月に石垣島図書館で読んだ寄付についての本(下にリンク)の内容を思い出しながらそんなことを思ったあと、

「社会を変える」お金の使い方|書籍|英治出版

その日泊めてもらう友人の住む地域に向かう電車の中で、日本人の寄付について調べてみると、「日本人があまり寄付をしない理由」などと、寄付が少ないのを前提に書かれた記事が多かった。

 

日本では寄付というのは、まだまだ少数の人がする、ユニークなお金の使い方のようだ。

 

 

大してお金に余裕のない大学生が月々1000円の寄付をする理由 

 

今僕はバイトを3つかけ持ちをして、家賃スマホ代等の固定費を除いて月に7万円ほど使えるだけのお金を稼いでいるのだが、今月から月1000円の寄付(登録制で、毎月自動で引き落とされる)を始めた。

 

最初から無理をして途中でやめたくなかったので、あえて最小限の額にした。1000円であれば、友人と飲む場所を居酒屋から自宅に変えるか、1日の食事を具なしのうどんやパンなどの質素なものに変えれば節約できる額なので、今後自分が経済的に苦しんでいるときにもなんとか続けられるだろうと思っている。

 

 

寄付と聞くと、慈善活動とか社会貢献といったイメージを持つ人が多いかもしれないけれど、僕が寄付をするのはそんな高尚な理由からじゃない。

単純に、「自分のお金を、ほんの少しでも、日本社会を自分にとっての理想に近づけるために使いたいから」だ。

 

僕にとっての理想の社会が、「どんな環境で育った子供でも、ある程度将来の経済的な自由が保障される社会」で、それに近いことを目指しているのがたまたまLiving in Peaceだったので、そこに寄付をすることにしたというだけだ。

 

 

普通、社会なんて個人の欲望では決して変えれないもんだと思うけど、お金を使って、ほんの少しでも、社会を自分の望む方向に近づけることができるのが「寄付」という仕組みなのだと思う。

 

それに1000円の寄付なんて、社会に実際に与えるインパクトよりも、自分の欲求を満足させる意味合いのほうがずっと大きい。

 

 

 

これからも、僕は自分の欲望を満たすために、寄付をしていこうと思っている。

 

いつか、もっと直接的な方法で、できれば多くの人に喜んでもらえる形で行動を起こせたらいいんだけど。

 

 

 

この文章で何が書きたかったかっていうと、たぶん、寄付ってそんなに割が悪くないよってことだと思う。

9月3日に東京に行った話①お風呂の話

すごく久しぶりに文章が書きたくなったので、短いのを何度か、しばらく続けて書きます。

 

 

お風呂の話

 

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 銭湯でよく見るケロリン桶のサイズが、関西と関東では違うということをご存じだろうか。おそらく皆さんにとってなじみのある関西のケロリン桶は、直径21cm、高さが10cmであるのに対し、関東のものは直径、高さの両方がそれより1.5cmずつ大きいのだ。重さにいたっては100gも関東のほうが重い。

 

 

 ケロリンとは、内外薬品株式会社の鎮痛薬の名前である。東京オリンピックの前年、銭湯の木製の湯桶が衛生面で問題視されるようになり、合成樹脂製のものに取り換えられようとしていた。それに目をつけた当時23歳の陸和商事の営業担当が、「湯桶に広告を出しませんか」と内外製薬に持ちかけたのがきっかけで、全国に広まった。

 

それではどうして関東のものは大きく、関西のものは小さいのか。その理由は、関西と関東の入浴文化の違いにある。

 

 

 先日東京に行く機会があり、その夜、横浜の日吉にいる友人の家に泊めてもらうことになった。日吉駅の東側には慶応大学のキャンパスがある。西側は蜘蛛の巣のように、同心円状と放射線状に道があり、そこに学生向けの安い飲食店がたくさん並んでいる。友人の仕事がその日遅くまであるというので、会う前に銭湯で短い旅の疲れをいやすことにした。

 

 

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   日吉駅から北に7分ほど歩いたところにある銭湯は、浴室に入って正面の壁に富士山ではない山の絵が大きく書かれている。露天風呂があるのがうれしいが、 サウナが別料金なのは少し残念だ。大きなケロリン桶が、浴室に入るドアのすぐ左側に積み重ねられていた。

 体を洗ったあと、ケロリン桶を使ってかけ湯をし、湯船につかる。浴室全体を見渡すと、子供二人と父親の家族のほかに、おそらく慶応大学の学生や、ほかにも壮年の人たちが数人いる。子供たちは露天風呂から上がってそのまま水風呂に入っていく。近くにケロリン桶があるにも関わらずだ。サウナから出た大人たちは、シャワーで体を洗ってから水風呂に入る。なんと、浴槽に入る前にケロリン桶を使ってかけ湯をするのは自分しかいないのだ。

 

 風呂桶を使ってかけ湯をする文化があるのは、実は関西だけのようだ。ケロリン桶は、風呂桶を使ってかけ湯をする関西人にとって使いやすいようにと、入る湯の量が少なく持ちやすいサイズで作り直されたのだ。

 

 旅先で銭湯に入ると、その土地で生活している人たちの日々の生活を垣間見れたような気分になる。風呂に入りながら学生たちが話すとりとめもない内容に、ちょっとした文化の違いを感じ、彼らが話す方言によって、自分が普段住む場所とは違う世界にいることを意識する。横浜の人はやっぱりDeNAが阪神に勝つと喜ぶし、露天風呂で「競馬で6万負けた」などと友人どうしで話していた(おそらく)慶応大学の学生は、どう考えても自分より裕福だ。

 

 

 それにしても、小さいサイズのケロリン桶が京都、大阪と兵庫あたりでしか使われていないというから驚きだ。自分にとっての当たり前は、あまりにも多くの人にとって、当たり前ではないようだ。人を理解しようと努める前に、人に自分を理解してもらう努力をするべきなのかもしれない。

 




 (この文章は、関西のとあるパソコン教室の授業で筆者が題材に使った資料を加筆・修正したものです)