書きながら考えたこと。

のんびり、マイペースで生きる。

図書館に育てられたの私だ

 

本好きの知り合いがSNSでこの前、図書館法が制定されたのが4月30日で、この日が図書館記念日なのだと言っていた。

 

リンクをたどりながらいろいろ読んでいくと、僕は全然知らなかったかすっかり忘れてしまっているんだけど、2016年に図書館司書の待遇向上を求める動きがあり、「図書館に育てられたの私だ」というハッシュタグで声を上げる人たちがいたことを知った。

 

それから数年たった今、図書館司書の待遇はどうなってるのかと思って調べてみたら、非正規職員の給料を逆に減らそうとする自治体もあるようでびっくりした。

 

www.huffingtonpost.jp

 

honne.biz

 

 

www.nishinippon.co.jp

 

 

 

「図書館に育てられた」

とまで思ったことは僕はこれまでなかったけど、図書館みたいに安心できる場所は、そう多くないとも思う。

 

小学生の頃、家が荒れていて家にいるのが危険だった時期は、よく地域の図書館に非難していた。場所はどこでも良かったんだろうけど、好きな本や漫画のある図書館で、本に没頭するのは、きっと現実逃避の意味もあって、その当時の自分の心の支えになっていた気がする。

 

高校3年生の頃、一度だけ家出をしたことがあった。家出といっても大したものではなく、家でも学校でも勉強のことばかり言われるのが嫌になったから一日学校をサボってその日は家にも戻らず、自転車で遠くまで行くことにしたんだった。

 

夜は結局、当時別居していた父親の家で泊めてもらったから、あれは家出だったのか家入だったのかもよくわからないんだけど、その日の昼間、小学生の頃に住んでいた地域の図書館を数年ぶりに訪れて、その地域に自分がいた頃から置いてあったのに、なぜか読んでいなかったドラゴンボールの漫画を、ひたすら読んで過ごしていた。

 

その図書館にいると、小学校の頃の、喧嘩ばっかりしていた家族を思い出してつらくなったりもしたけど、図書館はやっぱり温かい場所だった。

 

やんちゃそうな人はほとんどいないし、喧嘩がおきそうな気配もない。みんな自分の関心のある本や雑誌を読んだり、調べ物や勉強をすることに集中している。

 

すごく平和な時間。

 

 

今僕が良く使っている図書館は、わりと新しくてとても大きいから、蔵書の数だけでも飽きが来ないくらい揃っていて、使うようになって1年以上たっても、初めていくコーナーに並ぶ背表紙の数々に興奮することもある。その上、いろんなテーマで特集が組まれておもしろそうな本が階段を上がってすぐのところにずらっと並べられていたりするから、本好きの僕にとっては遊園地よりも楽しかったりするんだけど、普通の図書館は、ちょっと薄暗くて、少し古びた本が多かったりして、閲覧席の数が少なくて、人が多い時間帯には座って読める場所がなかったりもするんだろう。

ずっと通っていると、ちょっと窮屈で、つまらなく感じてしまうこともある。

 

それでも、幅広いジャンルの本が好きなだけ読める場所があるのは、本好きにはたまらない。お金を払わなくても好きなだけ本が読めるってすごいことだし、子どもの頃の自分を図書館に連れて行ってくれた父親には感謝している。

 

自分もいずれ家族ができたら子どもを図書館に連れて行きたいし、

いつかなんらかの形で、図書館を育てる側にも回れたらいいなと思う。

 

 

 

 

 

 

「社会がどこまで受け入れられるか」ということ

 

PCの充電が残り20%で、コンセントのないカフェにいるのでさっと書いてみる。

 

大阪精神医療人権センターというところから精神病院に面会にいる活動を一昨年の暮れごろからしている。先日、大阪北部の病院に行き、今日は大阪の南森町にある事務所で広報誌の発送作業の手伝いをしていた。先日の面会で印象深い出来事があったり、今日事務所で、このNPOの活動に携わっている人たちと、封筒に書類を詰める作業をしながら話していたから、いろいろ思うことがある。

www.psy-jinken-osaka.org

 

現在でも30万人弱の人が精神科病院または総合病院の精神科に入院していて、人口あたりの患者数や入院日数は他国に比べて長く、頻度の増えている身体拘束が近年問題視されている。

 

国もそのことは問題視していて退院促進を進めていて、家族や地域での一人暮らしが可能な人は以前に比べてサポートを受けながら退院しやすくなっているようだが、病院側がなかなか退院を許可できない、でも本人は入院生活がつらく退院したい、というようなケースの人が、人権センターに支援を求めて電話などをしてくる。

 

僕はこのボランティアを始める前にもいろいろと本を読んだりして知識としては知っていたのだけど、患者の入院日数というのがこの国では、患者の症状だけでなく家族の意向に大きく左右されることを、面会を通して思い知った。

 

家族が退院に好意的で受け入れ体制が整っていれば退院しやすいし、身寄りがいないとか、家族との関係が悪く家族が入院の継続を希望しているケースになると入院期間が長くなってしまう。

 

病院スタッフは、患者を守り、患者の回復を支援すると同時に、患者を家族から離すことで家族を支援するという意識を持っていることがある。

 

本人が退院を望むけれど、家族が受け入れられなけいというのであれば、さまざまな居宅支援サービスや地域資源などを使って一人暮らしをするべきだと僕は思う。

 

けれど、病院スタッフにいらいらしてあたってしまう患者や、精神的に不安定な人を退院させることを病院側が認めることは現状難しいし、そういった人を社会に帰すことに病院側は当然責任も感じる。

 

人というのは、家族のものでも病院のものではないはずんだけど、「責任能力の無い精神病の人が問題を起こしたときに誰が責任を持つのか」という問いに対しての答えは、今の日本では家族であり、精神病院なんだろうと思う。後見人がいれば後見人かもしれない。

 

 

「病院から出せ」と看護師や医師に激高する患者さんを、それがたとえ、入院のストレスで怒っているだけで、病気の症状でないとしても、一度試行的に退院させて、一人暮らしをさせてみるだけの大らかさが、今の、僕が暮らしている社会にはないと思うし、その人を受け入れてくれるような地域の居場所が(いくつか、受け入れて支えてくれる場所を知ってはいるけれど)十分にあるとは思えない。

 

「社会が変わらないと施設(病院)の環境もよくならない」と、あるデンマーク人が言っていたという話を聞いたことがある。(デンマークノーマライゼーションの言葉が生まれた福祉国家だ。)

この言葉の意味の一部は、「社会が寛容でなければ、そういった厳しい環境に受け入れてもらい、暮らしていけるだけの状態になってからしか外には出れない、だからどうしても施設(病院)のスタッフはその人に求めるレベルが高くなって、施設での生活も管理的で厳しいものになる」ということなのかもしれない。と思った。

 

どこまで異質な人を受け入れられるか。障害のある人、病気の人に対して周りの人たちがどれだけ知識を持って、忍耐強く受け止めて関わっていけるかといったことが変わっていかない限り、気分が不安定な人が、その人の望む生活を叶えるのは難しいままなんだと思う。難しいからこそ、支援する側としては、おもしろくてやりがいがあるってのもあるけど。


沖縄日記。辺野古さんぽ

2日目、午後。


 スターバックスで少し休憩をしてから、辺野古へ向かうことにした。米軍基地が近い北谷(ちゃたん)のスターバックスは外国人が多く、ドライブスルーでも店員と客が英語で話していた。店内でも米兵らしき背の高い男性と、その彼女と見られる日に焼けた日本人女性が仲よさそうにレジ前に並んでいる。米兵が来てから70年以上がたった今の沖縄では、当たり前の風景なんだろう。


 店内でアイスラテを飲みながら、戦争の年に沖縄県知事に赴任した島田叡さんのことを調べていた。北谷町の図書館で「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」という本を見つけて読んでいた。そこには、沖縄への米軍上陸を前に大阪府の内務部長から沖縄県知事に赴任した彼の、沖縄県民に寄り添う姿が描かれていて、その勇ましさに感動していた。

 

県知事の打診を受けたとき周囲の反対の声に対し、「俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」と言って沖縄に飛んだという彼は、知事として県民に命を大事にすることを繰り返し訴え、軍上陸の前に多数の県民を避難させたが、自身は戦争の最中に壕で亡くなったらしい。

 

車に乗り、ナビで辺野古への道を調べる。北谷から1時間弱。途中からは島の東側の大通りを走っていけば着くらしい。

沖縄は4月でも暑く、少し停めていただけで社内は熱気がこもっていた。エアコンをかけ、ラジオ沖縄を聞きながら道を進む。途中まで道は少し混んでいたけど、しばらくするとずいぶん田舎町の景色になっていき、車も減っていた。

 

 名護市に入る。キャンプ・シュワブの門が右手に見え、少ししたところで海の方に曲がったら、小高い場所に休憩所があった。広場の休憩所から、川を挟んで向こう側の住宅地が見渡せる。住宅地といっても、それほど家が密集しているわけでもなく、小さな畑もところどころにあるような、のどかな場所だ。休憩所の近くに平和の塔と書かれた石碑が立っている。平成7年に立てられたものらしい。50年前に米軍が計画していたという辺野古基地が、今になって”移設”という名目で、作られようとしている。


 埋め立てがされている様子を見ようと、海の近くの通りをさらに北へ進む。大通りには沖縄3区の補欠選挙のポスターが貼られていた。玉城知事とともに映る、移設反対派の候補者のポスター。その週の日曜日の選挙では、その人が勝ったらしい。民意がどれだけ明らかになっても、基地建設を、日本政府はやめようとしない。


 郵便局のすぐそばの空き地に車を泊めて、少し散歩をしてみることにした。向かいのアパートの前の広場で放課後の子どもたちが遊んでいる。

 通りを南に少し歩くと、小規模多機能と書かれた介護事業所があった。子どもの多い沖縄でも、高齢化は進んでいるんだろう。沖縄戦を経験した世代の人たちが、ここを利用しているのかもしれない。
 さらに歩いたら海辺に出ることができた。南側のキャンプシュワブの方向に、大きなクレーンや船が見えた。その周りが大きく囲われているのは、埋め立てに反対する船が入ってこれないようにするためだろうか。


帰り際、すぐ近くの小さな山を登って、上から辺野古の海を見下ろす。たしかに綺麗な海だ。「この海を汚すな、自然を破壊するな」と叫ぶ気持ちはよくわかる。
けれども、じゃあ元々汚いからって大阪湾に空港を作るのは良かったのかとか、これまでも人間のために、海は埋め立てられてきて、自然はたくさん破壊されてきたんだとも思う。ただ、この埋め立ては、その土地の人たちの気持ちを無視して、外の人間が勝手に、沖縄のためではなく日本やアメリカのために、自分たちの土地を汚している。そのことに対する反発や怒りは最もだと思う。

 

沖縄は、戦後もずっと差別を受けてきた。米軍によって住民がボリビア強制移住をさせられた時代や、憲法も適用されず、国の保護を受けずに自力で自分たちを守らないといけない時代があり、今も沖縄の住人が自由に入れない土地が、島のいたるところにある。

 

そのことを、基地の負担を引き受けない他の県の人たちはめったに意識することもなく、沖縄の人たちがどれだけ声を上げても、内地の人たちに届くものはほんの一部で、多くの日本人が沖縄に旅行に行くのに、基地問題が全国的に国政選挙の争点になることはない。


「沖縄の苦しみを、少し察してほしいとは思う」と、普段僕から聞かない限り沖縄の話をめったにしない、沖縄出身の友人が言っていたことがある。

 

地上戦で多くの人が家族を失ったこと、内地に移住しても差別に苦しんできたこと、そして近年、沖縄が基地に依存しない経済発展を進めていること。

僕もつい最近まで知らなかったことばかりだけど、多くの人に知ってほしいと思う。

 

辺野古のある名護市から、那覇へと続く329号線は、海が綺麗に見えて最高に気持ちいい。

今晩は友人のお母さんがステーキ屋に連れて行ってくれるらしい。ラジオで阪神が珍しく大量リードしているのを聞きながら、那覇に向かった。

 

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www.okinawatimes.co.jp

ryukyushimpo.jp

 

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リンクは僕が読んだ本の紹介です。

 

 

 

 

日記を書いてから、

 

 

ばあちゃんが亡くなってバタバタしていた直後くらいから、宿直明け以外に休みのないハードな12日間がやってきてそれが昨日で終わり、今日は久しぶりに朝ゆっくり休める日だった。

9時くらいまで寝た後最近はまってるポケモンのゲームをしたり、クロスバイクを修理に出そうと自転車屋に持っていったりして、昼からは1ヶ月ほど日本に一人旅に来ているデンマーク人の友人と奈良で会って、一緒に大仏を見たり鹿と戯れたり日本酒を飲んだりしていた。

 

僕は留学していたわりにはあんまり英語が話せないし(かと言って聞いて理解するのはできるかというとそれも微妙だ)、今回はたぶん1年ぶりくらいに英語を話す機会だったからコミュニケーション大丈夫かなあと思っていたけど、その友人が僕の下手な英語を上手に理解してくれたおかげで、いろいろ話せてありがたかった。

 

ブランクがあったけど、以前話せた言葉は変わらず話せるし、その友人の使ってる言葉をもらって自分も話したりして、こうやってちょっとずつ語彙が増えていくんだろうなあと思って、なんだか安心した。スピーキングも、スキーや自転車とかと同じで一旦体が覚えたら忘れないものらしい。初歩レベルに限った話かもしれないけど。

 

とにかく、これからも下手でもいいから臆せずに話していこうと思う。

そして、臆せずに話したいとき、アルコールはかなり役立ってくれる。

nihonshuは偉大だ。

 

全然関係ないけれど、最近、文章を書く依頼が来たので、その内容について少しここに書きながら考えてみようと思う。

 

僕が月に一回程度面会ボランティアをしている、大阪精神医療人権センターというところの広報誌に、面会をしている理由やボランティアの体験について短い文章を書いてほしいと頼まれた。できればそこにデンマーク留学で見聞きしたことも含めてほしいと。

 

デンマークで見聞きしたことをまだほとんど発信できていなかったので、精神医療に関心のある人たちが読む広報誌でこういう機会が与えられてありがたい。

一方で、文字数に限りがあるし、いろんな関係者や当事者に配慮した表現をするという制約があるから、個人的なブログというこの場で、これを機に、少し書きたいことを書きたいように書いてみようと思う。

 

僕がボランティアを始めたきっかけ。

母親代わりに自分を育ててくれた、今は亡き祖母が・・・とかって書くと、少し読者の共感を得やすくなるんだろうか。

 

直接のきっかけは、ばあちゃんの精神病院への入院だったと思う。

見舞いに行ったとき閉鎖病棟に入っていたばあちゃんが僕に言っていた病院の厳しいルールに対する文句はとても全うに思えたし、直感的にも、その精神病院はちょっとおかしいんじゃないかと感じた。

 

閉鎖病棟で、本や新聞が患者の刺激になるから禁止されるのは百歩譲って理解できるとしても、日記も書けず、部屋に時計も無いのというはいくらなんでもやりすぎなんじゃないかと思った。

自分でもこんな環境にいたらおかしくなると思ったし、刺激の無さ過ぎる環境で人が幻覚や妄想を起こしやすいことは大学の認知心理学の授業で学んでいた。だからこの環境があまり治療的なものではないんじゃないかと思い、日本の精神病院のことを図書館で調べて現在まで続く人権侵害の歴史を知り、その数ヵ月後にデンマーク福祉国家のメンタルケアの歴史や今を少しだけ、学んだ。

帰ってきてからフィンランドスウェーデンの事例も本で読んだりして少し知ったけれど、日本と北欧で、精神病患者の置かれる待遇は全く異なる。

自分が見たり読んだり聞いたりした少ない情報を一般化するのはよくないけれど、僕が見たデンマークの精神病院では患者は一人部屋を与えられ、共用スペースで他の患者とテレビゲームをし、したければジムで理学療法士の指導ののもと筋トレをしたり、体育館でバスケをしたりすることができたし、包丁を使った料理や木工をすることもできた。そして精神病院のスタッフは患者に生活習慣を整えることを教え、他者との適切なコミュニケーションのとり方を学ぶ機会を与え、社会復帰を主眼に置いたかかわりをしていた。ちなみにこれは、殺人などの重度な犯罪をした精神病患者のいる病院の話だ。

 

一方、日本の一部の精神病院では、10年以上入院している患者が医師から外出の許可をもらうことができず、ずっと病院内で過ごしているということが少なくない。

これは必ずしも、病院の医師や看護師が悪いのではないと思う。専門職の数が少なかったり、病院にいる人間が忙しすぎて患者にじっくり関わることが難しいといった構造的な問題は大きいと感じている。僕がこれまで、問題があるとされている日本の病院で出会った医師や看護師やケースワーカーの人たちは、どこにでもいるような、ある意味普通の人たちだった。人は置かれた状況や周りにいる人たちの影響で言動や考え方が変わる。

 

僕がデンマークで患者以上に羨ましいと思ったのは、患者に関わるスタッフだった。

自分のものさしで人をはかるのではなく、その人の考え方を知る努力をし、たとえ言語化してわかりやすく伝えてくれることがなかったとしても(そういうことのほうが多いだろう)、その人に見えている世界やその人の価値観を知ろうとして、自分と違う人の心を冒険していく、その楽しみ方を知っているようだった。

 

精神病院に社会が求めていること、つまり他害行動のある患者から社会を守る役割と、患者一人ひとりを保護しながらその社会復帰を支援する役割、その2つのバランスをどうとっていくかという悩みを、現場のスタッフが持っていることも、魅力的に思えた。このタイミングで退院するべきかどうか。患者のことを決めるのは医師だけではない。悩みながら目の前の人と関われるというのは、幸せなことだと思う。

 

日本へ帰ってから、日本の浅香山病院の患者と、看護師の物語を撮った「オキナワヘ行こう」という映画を見る機会があった。そこには患者の願いをかなえるために奮闘する看護師と、あまりにも久しぶりの外泊や旅行を不安に思って心が揺れ動く患者さんの様子が、ユーモアを交えながらも、ときにはシリアスなタッチで映されていた。そんなことをしている、そしてそれを映画にすることでこの世界を開いて行こうとする、そんな病院も日本にはあったのかと驚いた。

ちなみにこの映画は監督の意向で、自主上映しかされていない。

 

僕は今、精神病院の外側で生きていて、でも時々、ボランティアを通してなかに入っていくことができている。

一方で、何十年と精神病院に入院している人は、ときどき、病院の外の世界を見たり、退院して外での生活を始めたりもする。

その環境の厳しさを知りながら、ただ病院の外のほうがいいとか、自由がいいとかいう自分のものさしで図らずに、中の人の気持ちを、見えている世界を冒険しながら、何かしらその人の役に立てたらいいなあと思ってほんの少しだけ関わらせてもらっている。

 

長くなったけど、本音をだらだらと書くなら、こんな感じかな。

 

人が苦手な福祉職や教育職の人に知ってほしいこと。

 

10日前に、祖母を看取った。

死んだ母親に代わって0歳の頃から僕を育ててくれた人だったのと、性格もかなり特徴的な人で存在感が大きかったから、ばあちゃんを看取ったことはずいぶん僕の心に響いている。最近は、ぼーっとしてばあちゃんのことを考えることが多くて、それを言語化したくて、こないだ考えを文字に起こした。

 

僕は母親の自殺も含めて、タブーとかはなくしたほうがいいと思ってるほうだから、ばあちゃんの死を看取った経験をこのブログに載せてしまおうかとも思ったけど、ばあちゃんや僕にとっても、かなりプライベートな話が多いからやめておくことにした。

kikikiron.hatenablog.com

 

意識を失ってから2日半ばあちゃんは生き延びて、その間、ずっとではないけれど病室でそばにいた。そのときに読んでいた本が、すごくおもしろくて自分を楽にしてくれて、祖母や他の家族のことを新しい視点で振り返るきっかけを与えてくれた。同時に、タイトルにあるような、(僕もそうなんだけど、)人が好きだけど長時間一緒にいるとしんどくなってしまいがちな、だけど人と関わる仕事をしたくてしている人たちのことを肯定してくれるようにも感じたから、少し書いてみようと思う。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

この本だ。

 

この本と出合った最初のきっかけは、奈良に遊びに来てくれた友人が、紹介してくれたTED動画だった。イギリスの大学院を目指して勉強中で、英語の勉強をしているという友人が良く聞いていると言っていて、興味があるタイトルだったから僕も聞いてみたらすごくおもしろく感じて、この人の名前で本を検索したらたまたま図書館に本があったので、借りて読んでいた。

 

 

www.ted.com

 

 

僕は今福祉の仕事をしていて、障害のある人、具体的には知的障害や自閉症、脳性まひという特徴を持つ人たちと日々関わっているんだけど、特にたくさんの障害のある子どもたちとひとつの部屋で数時間一緒にいることが僕は苦手で、その仕事の日にはいつも疲弊しきってしまったり、時には耐えられなくなって抜け出して一人で泣いてつらさを発散するようなこともある。

 

人と長時間いることは元々苦手で、どんなに気の合う友人や、付き合っていた人とでも旅行などでずっと一緒だと、気づかれして、独りになりたいと思うことが多かった。

同じような感覚を持つ人は意外といるもので、似たタイプの人と仲良くなるから、一緒に旅行しても「2日目からは別行動で」みたいなことが気軽にできて、そんな気質でもプライベートではうまくやれていたんだけど、仕事だと自由に離れたりすることは難しい。

 

それでも職場も人に理解してもらって、かなり”合理的配慮”をしてもらってるんだけど、そんな人間が福祉の現場での仕事を続けるべきなんだろうかと、申し訳なさからくる疑問みたいなものは常々あった。

 

自身も内向型だという、スーザン・ケインさんの「内向型人間の時代」では、人と関わることにエネルギーを使ってしまうとか、静かで落ち着いた環境や、一人で作業することを好み、集団より個人での活動で力を発揮するといった内向型の気質が、「刺激への反応の強さ」という体質からある程度規定されていることを教えてくれる。

心理学者のユングによって大衆化された内向的・外交的といった性格特徴の捉え方だが、その後ある研究者によって、赤ちゃんのときに外からの刺激に過敏に反応して泣いたりした人は内向型の人に、反応が薄かった人は外向型に育つことが多いということがわかったそう。

内向型は人が嫌いなのではなく、人とのかかわりを含めた社会的な刺激も含めた多くの刺激に敏感に反応してしまうために、人ごみなどの刺激の多い環境に長時間いると疲弊してしまうらしい。内向型の人はアレルギー反応が多かったり、皮膚が薄いことも多いらしい。

この本を読んで、自分も典型的な内向型だと感じた。大勢の旅行よりも一人旅を好んだり、一人で静かなカフェで過ごすのが好きだったりするだけでなく、僕はたぶんひとより皮膚が薄くて、まぶたを閉じても外の明るい光がかなり目に入ってきて夜行バスでカーテンの隙間から入ってくる光がまぶしくてアイマスクなしでは眠れないし、騒がしい飲み屋などで3人以上で話していると自分の隣の人以外の声が聞き取りずらく、会話にかなりエネルギーを使ってしまうので、大学の頃から、飲み屋よりも家で飲んだり、川辺のベンチで酒を飲みながら話したりすることを好んでいた。

 

 

著者はアメリカ育ちで、現代のアメリカでは特に社交的であることが求められ、教育現場でもグループワークばかりが重視されたり、会社でも個々のプライベートスペースが確保されないオープンオフィスが流行っていたり、子どもが一人で過ごしていると問題児と思われてしまうことさえあることを危惧している。そういった社会環境では、一般に人口の2~3人に1人はいるという内向型の人の能力が発揮されず、そのことが社会全体にとってもマイナスだというのだ。

 

さて、今の仕事で自閉症の人と関わることも多いんだけど、刺激の多い環境を苦手とするのは自閉症の人に典型的な特徴だ。

自閉症スペクトラムという言葉も広がって、自閉症の人の特徴が、一般の人の多くにも見られる特徴と連続しており、自閉症とそれ以外の人を明確に2分する線引きはなく、程度の問題であることは当事者や専門家や現場の人間以外にもある程度知られていることだとも思う。

障害福祉の現場では僕のような特徴を持つ人間を「自閉的特徴がある」と言ったりもするんだけど、内向型の人間と自閉症の人の特徴ってきっと関係している。

自閉症を治せないように、内向型の人間の性格も治せないし治すべきでもない。

本のなかで著者が内向型の人に対して、必要ならば身につけようと勧めているのは、自分を理解して無理のない生き方をするスキルと、必要に応じて社交的な人間を”演じる”スキルだ。

その人自身は変えられないから環境をその人に合わせたものにしていったり、より快適に生きていくための技術を身に付けていくという、自閉症の人の支援のしかたと考え方が似ていて、すごくすんなり入ってきた。

 

と同時に、福祉や教育職に、内向型の人間の感覚に共感でき、理解できる、自身も内向型の特徴を持つ人が一定数いるほうがいいんじゃないかと思った。

 

福祉や、おそらく教育の現場でも一般的に人と関わること、コミュニケーションをとることがよしとされている。それは利用者(あるいは生徒)に対しても、支援者(先生)に対してもそうだと思う。

利用者に積極的にかかわりにいくことがよいこととされるし、子どもも友達と仲良くすることがいいこととされている。

不登校の人を学校に行くように”支援”する人の考え方も似ていると思う。

 

社会とつながること、関わることを、スーザン・ケインさんは否定していないし、むしろ内向型の人にとっても価値のあることだと言っている。

いつの時代も、自分たちの強い思いを形にしていくには他の人たちとの協力が必要だし、多くの人のアイデアによって発展していくこともたくさんある。

 

一方で、ひとりのときのほうが力を発揮できる内向型の人間が一人になれる環境も確保されたほうがいいということだ。

 

そういうことを考えられる人がいたほうが学校の子どもたちも、施設の福祉サービスの利用者もきっと楽だし、より力を発揮できるのだと思う。

 

僕もずっと現場で働くことはないと思うし、内向型の人間が無理して福祉や教育や人と関わる仕事を続ける必要はないと思うけれど、あなたがそこにいて、あなた自身の感覚を大事にすることで楽になれる人はきっとたくさんいると思う。だからしんどさを含めたその感覚を悪く思わないで、肯定的に捉えて向き合ってほしいと思う。

 

 

 

日本でもこれだけ社交性、コミュニケーション能力、グループ活動、プレゼン能力なんかが重視されている時代に、それが苦手な人も長所を生かして、静かでも快適に、生きていけますように。

 

本を読む時間のない人に、このサイトもおすすめです。

kaminoy.com

銭湯日記。3/10藤井寺温泉(大阪府藤井寺市)

 

3月11日。

震災の日から8年たった。あの日の記憶は、関西に住んでいた自分にも強烈で今も鮮明だから、8年前というとそんなに前かと思う。いろんな巡り会わせがあって出会った、震災がなければ出会うことのなかっただろう関東に住む人とこの前話していて、自分ももしかしたら、震災の影響を受けて今の生活に行き着いたのかも知れないと思った。

 

震災のあったときに一緒に住んでいた祖母は勉強に関してものすごくスパルタな人だった。2011年3月11日、当時18歳で現役の大学受験に落ちた僕は浪人することを決めていた。高卒後、予備校が始まる前の春休み。今でも仲良くしている高校の友人に、チャリティーコンサートがあるから一緒に行こうと誘われた。

出かけることを伝えたときに祖母に「大学落ちたのにそんなんに行ってる場合か。勉強しなあかんやろ」というふうなことを言われたのを覚えている。「勉強や受験より大事なもんがあるやろ!」と僕は強く反発した。そのときに「自分のことばっか考えて社会のこと考えないのはおかしい」と思ったから、僕は大学でいろんなボランティアをして、その延長で、今の仕事に就いているように思ったりもする。

 

とまあ、これはあとから自分で作ったストーリーで、実際のところそんな因果関係なんかないと思うけれど。

 

大学2回生くらいのときに、青春18切符で京都から仙台まで行き、気仙沼や釜石をたずねたことがある。大きな船が陸地の道路よりも山側にあるのを、気仙沼をレンタサイクルで走っていて見つけたときの衝撃はすごかった。あの地域は今、どうなっているんだろう。

 

 

銭湯のことを書こうとしていたんだった。

 

昨日は休日で、初めて会う人と藤井寺で餃子を食べていた。

その人が偶然高校の後輩で、高校の思い出話で盛り上がったり、会いに行く途中に通る道明寺駅が、高校のころの記憶がいろいろ呼び起こされる場所だったりして、懐かしい、なんだか不思議な日だった。

 

高校の頃、父親と住んでいた僕は、父親が当時付き合っていた人にたまに弁当を作ってもらっていた。おいしい弁当を自転車で朝取りに行っていた、その人の当時の家が、その駅の近くだったと記憶している。

 

その道明寺から2駅隣、餃子を食べた人と出会った藤井寺駅の近くの銭湯に、せっかくなので、帰りに寄ることにした。

僕は銭湯が好きで、特に、行ったことのない銭湯に入るのが好きだ。

 

osaka268.com

 

藤井寺温泉は、近鉄藤井寺駅のすぐ近くにある。

駅南側の通りを少し東に進んで、南に折れた通り、

すぐ近くにはから揚げやさんや飲み屋がある、わりとにぎやかな場所にある銭湯だ。

 

入ってみると、脱衣所も浴室もわりと広く、ゆったりした作りだった。

そして地味にテンションがあがったのが、風呂桶がケロリン桶だったこと。

 

ケロリン桶に出会って、「昔ながらでいいなあ」となんだか感動してブログにも書いたのが、3年前、神奈川の日吉の旭湯という銭湯だった。その頃のことを思い出してまた、懐かしかった。あの日は興味のあるNPOのミーティングに見学に行った後、大学の友人の家に泊めてもらったんだった。あれからいろんな銭湯に行っているけど、しばらくケロリン桶には出会っていなかった気がする。

 

kikikiron.hatenablog.com

 

藤井寺温泉は、400円台で入れる一般の銭湯では珍しく、シャンプーとボディソープが備え付けだったのが手ぶらの僕には嬉しかったし、日曜日の夜なのに入ったとき自分ひとりしかいなくて貸切状態で贅沢だった。雨の日だったというのはあるけれど、あとで数人入ってきたから、かなりラッキーだったと思う。

 

さらさらした軟水のお湯が気持ちよく、ミストサウナも広くて気持ち良かった。

それと、ライオンの口から水が出てくる水風呂が、大学時代、京都の左京区で住んでいたときに僕が愛用していた銭湯と似ていて、それもすごく懐かしかった。

 

 

金曜日の仕事で感じたしんどさを、そのときもまだ引きずっていた。

子どもがたくさんいる騒がしい環境が自分はどうしても苦手なようで、そのことで仕事に支障をきたしているのを、どうにか対処しないといけないと思うのと同時に、その仕事中に感じた胸の苦しみがずっと残っていた。

 

銭湯に入ったあと、近鉄とJRを乗りついで奈良に帰るときに、銭湯効果で少し楽な気分になれていた。

たいていのことは、どうでもいいことなんだと今では思える。昔に比べたら、ずいぶん落ち込みにくくなったし、立ち直りも早くなった。

どっちみち今の仕事をずっと続けるようには思わないし、数年後別の仕事をしていたら、今自分が苦しんでいることなんて、どうでもいいどころか、きっと忘れてしまっている。

 

たくさんの子どもと関わると感じる胸の苦しみの原因について、過去に何かあったんだろうかと考えたことがこれまでにも何度かあったけど、全然思い浮かばなくて、もっとシンプルに、自分は子どもの声の高さとか、動きとか、そういったものが苦手な遺伝子を持った個体なのかもしれないと思ったらなんだか楽になった。

 

昔は、0歳の自分と心中しようとした母親が、自分を愛していたとか愛していなかったとか、そんなことを気にしていたけど、単純に、母親も子どもが苦手だったから育児ノイローゼになったのかもなあ。その遺伝子を受け継いでるだけかもなあなどと思ったら、妙にすっきりした。

 

子どもは好きだけど、自分には難しい。

子どもを育ててたい気持ちはあるけれど、あんまり無理しない生き方をした方が無難かもしれない。

 

このことに気づかせてくれた今の仕事には感謝すべきかもしれないし、

しんどいときにいろいろと気配りをしてくれるスタッフがたくさんいて、

本当に恵まれた職場だなあとも思う。

 

また、銭湯に行こう。

眠りにつく前の頭のなかを文字にしたもの

昨日、苦手な環境にいないといけない仕事でかなりメンタル面の調子を崩してしまって、それを引きずっている。

いい加減、しんどいことを無視せずにきちんと向き合ってどうにかしようと思う。
毎回調子を崩すくらいなら、その仕事だけはやめさせてほしいと上司に言ってみるべきだろう。
しんどいまま続けていたら、他の人にも迷惑がかかってしまう。


人の心と言うものは、どこまでも環境に支配されるものだと思う。
人混みが苦手なのに人口密度の高い大阪や京都で25歳までのほとんどの期間を過ごした僕は、就職して人の比較的少ない奈良に来て、苦手でない仕事の方がずっと多い今の職場で、同僚や先輩にも恵まれて、僕は以前より随分気持ちが楽になれたと思う。

職場以外の人間関係も、自分と気の合う、好きな人ばかりになったことも大きい。

それでも仕事でたった二時間、とてつもなく苦手な環境にいるだけで、調子が悪くなるんだから、人は環境に支配される生き物で、自分がどこで過ごすかというのはかなり大事にした方がいいんだろうなと思う。

今回の件は、もしかしたら自分の気づいていない、何かのトラウマにでも関係してるのかもしれないけれど。


思えば高校の頃までの自分は、生きずらさや、ネガティブな気分にばかりなってしまう自分を、過去に虐待を見てきたことや、自殺した人や精神病の人たちに近い遺伝子を持っていることのせいにしたりもしてきた。

けれど今となっては、その解釈は自分が思いたいように思っていたものでしかなく、実際はもっとシンプルで、そのときの自分がただ、しんどい環境に身を置いていただけだったのかもしれないと、今では思う。

大阪という土地が苦手だったのかもしれないし、家族や、部活の人間関係など、自分に合わない社会で過ごしていたからしんどかっただけかもしれない。

その当時の自分には、環境を変える術も、そうすれば楽になるという発想さえもなく、ただ日々の苦しみを乗り越えていくことばかりを、努力した末に成功をつかむことばかりを考えていたように思う。

その後の8年間の人生の一部で、自分が楽だと思える環境に身をおくことができたのは本当に良かったし、楽を求めることで楽になれた経験を得られたのは、もっと価値があったと思う。

労働時間が長すぎると訴えたら短くしてもらえるような職場に、ろくに就活もせずに入れたのは、だいぶラッキーなことだったのかもしれない。

でも全く違う職種で働いている、同僚の彼氏さんも、しんどいからと言って部署を変更してもらって、ブラックな部署から残業がほとんどない部署に移り、一気に元気になったという。

楽になるためにすべきことは、頑張ることではなくて楽を求めることなんだろうと、今の自分は思う。それは一方で事実で、もう片方では、頑張ることが楽をもたらすというのも、必ずしも間違いではないと思うんだけど。

高校の頃、怪我をしてろくに練習に参加できないのに毎日部活の練習に行っていた日々を思い出す。
あの頃の自分は、誰に強制されていたわけでもないのにやめる選択肢がなく、苦しみながら努力することを正しいと信じて疑わなかった。
その日々は今も、苦い思い出として残っていて、それをきちんと、教訓として生かして行きたいと思う。

組織のためにどうすべきかとか、苦しみのなかにおもしろさを見つけるような努力よりも、まず自分の呼吸や、胸のつっかえや、不安や緊張なんかに意識的になって、それを取り払うために状況を変えるべきなんだという信念を、僕はとりあえず今、持っている。