考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

雨宿りのついで

 

夕方にバイトが終わって夕食をとってから、明日のパソコン教室のバイトの準備や卒論のための調べものをしようと大学に向かった。

 

小雨が降っていたけれど、明日の予報は晴れだし、夜、帰るころには雨も上がっているだろうと、傘をささずに自転車で大学に行った。

 

先月グローバルワークで買ったアウターは水をよくはじいてくれて、雨でも体を冷やすことなく移動できる。

 

 

バイトの準備や調べもの、ついでに公務員試験の勉強も軽く進め、そろそろ帰ろうかと学部棟の玄関に出ると、来た時よりも強い雨が降っている。

雨雲ズームレーダーによれば、20分後には雨は上がるらしい。

 

雨宿りがてら、パソコン室で時間をつぶすことにする。

 

 

そういえば、今読んでる小説に雨の日の話があったな、と思い出して、最近読んだ本をブログにまとめたくなった。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 

この『とにかくうちに帰ります』に、会社に帰るタイミングで雨が降っていていろいろ大変なことになる話があるんだけど、その著者である津村さんの小説に最近はまっている。

 

僕が最初に読んだ彼女の本が、「まともな家の子供はいない」だった。

このタイトルのインパクトに惹かれて書店で手に取ったんだけど、家族に怒る14歳の主人公の歯に衣着せぬ語り口がくせになった。

 

怒りの感情って理不尽でも口に出すとおもしろいし、自分を守るために大事なんだろうなと思えた。

自分はまともな家で育っていないと感じている人に特にお勧め。

 

って言ったけど、そもそもまともな家って存在するのかね。

 

 

www.chikumashobo.co.jp

 

 

 

 

 

最近読んでよかった本がもう一冊あるんだけど、もう雨が上がったみたいなので、

今はリンク貼るだけにして、

とにかくうちに帰ります。

 

www.poplar.co.jp

 

 

 

見えないものが見えたなら

 

今週はバイトと卒論の準備でびびるほど忙しいです。

 

 

本当は今週、パナマ文書に関連して、「どうして日本は脱税可能な直接税が多く、消費税収入が少ないのか。」みたいなことを書きたかったでんす。そのために今本を数冊読み進めているんだけど、とてもそれをまとめる暇はありません。

 

なのでその代わりに今日は僕の妄想を書きます。

 

 

 

去年のM1にトップバッターで出場したメイプル超合金に、Wi-Fiが飛んでるのが見えるふりをするネタがあるんだけど(こんな書き方したら怒られそうだ)、まあ、そんな風に、見えないものが見えたらどうなるだろうってちょっと妄想を膨らませてみたいと思います。

 

今日たまたま、宿直の仕事帰りに、目の不自由な女性が方向がわからずに困っているのを見つけ、その人を目的地まで案内している途中でいろいろ話をして、「たぶんこの人には僕に見えないものがたくさん見えているんだろうなあ」と感じたのが、この妄想のきっかけです。

 

 

 

花粉

花粉がもし目に見えたら、春先や秋の花粉が飛散しているシーズンは、花粉症の人にとってさらに憂鬱な季節になるだろう。

 

自分を苦しめる粉が外に飛んでいるのが窓から見えるわけだから、家から出たくなくなって引きこもりになるだろうし、どうしても仕事場に行かないといけないときは、花粉の多い場所を避けて迂回していくようになるだろう。

花粉の多い地域にある会社では「花粉症の人は春先には自宅で仕事をしてもいい」というルールが出来るかもしれない。

 

家族の中では、毎年花粉の時期になると花粉症とそうでない人との間に溝ができ、離婚が増える。花粉症でない人が花粉をたくさん服につけて帰ってきて、花粉症の人はその人を汚いものを見るような目で見ることになるから喧嘩になるのだ。

 

花粉症でない人が玄関前で花粉をしっかり落とすような思いやりを持ち、一方で花粉症の人は「花粉は無害な人には無害なのだからデリカシーがないのもある程度仕方ないのだ」と割り切ることが家族の平和にとってのカギであり、夫婦円満の秘訣だ。家族の中でも異文化理解が欠かせないのだ。

 

 

 

富裕層は、春先には花粉のない北海道や沖縄の別荘に避難するようになり、子育てにも変化が起きる。

 

小さいころから吸ってきた花粉が蓄積されて花粉症になるという噂を聞いた親は、沖縄や北海道に移住して子育てをするようになる。対花粉英才教育の始まりである。

 

子供の時期を北海道や沖縄で過ごした人が社会人になってからたくさん大都市に出てくるから、東京の人の数割が北海道や沖縄県民の話し方をするようになる。

方言のグローバル化が起き、標準語が今までにはあり得なかったスピードでめまぐるしく変化するようになる。ニュースキャスターのイントネーションもどんどん変わり古株のキャスターはその変化について行けず、仕事を失う。そのうち若手もどのイントネーションが正しいのかわからなくなり、いつの間にか、自動で最新のイントネーションを学習できる人工知能がニュースを読み上げるようになる。

 

 

花粉の多い土地の地価は下がり、春先には雨乞いをする人が増える。

「花粉のない日本党」の議員が選挙に立候補するが、マニフェストに実現不可能なことにしか書かれていないので支持は集まらない。国民は冷静である。

 

 

「花粉がつかない服」「花粉を落とすスプレー」「てらないてらない坊主」がバカ売れし、花粉関係のビジネスが盛り上がると、

花粉の飛散量がその年の株価に大きく影響するようになる。

 

その中でも特に業績を伸ばしたのは、近年眼鏡の需要が落ち下火にあった眼鏡業界だった。

最も売れ行きのいい花粉関連製品は、「花粉の見えないサングラス」だったのだ。

 

 

↓参考記事

www.japan-now.com

 

 

gyokai-search.com

 

 

 

 

 

 

Wi-Fi

 

「ここWi-Fi飛んでんな!」この言葉を発するのは、昨日テレビでメイプル超合金のネタを見てバカ受けした小学生ではなく、日本にきたバックパッカーのアルーンである。

  

外国人への詐欺が当たり前のように行われ、バスの中での暴行が何度もニュースになる自分の国に以前から嫌気がさしていたインド人のアルーンは、祭りで大きなトカゲを丸ごと飲み込んで盛り上がる仲間を見てドン引きしたのをきっかけに、しばらくインドを離れることにした。

「自分にはこの国は合わないのかもしれない…」

 

 

アルーンの家は比較的裕福で、彼は勉強もできたのでITに強い理系の大学に通っている。

かつて日本でインターンシップを経験していたという父親に、小さいころから日本のことをたくさん聞いていた影響もあって、大学を休学して日本を訪れることにした。バックパックという形での渡航ではあるが、近年日本で発達しているというAIについて、現地で少しでも学ぶことができたらいいとも思っていた。

 

アルーンは親戚のいるスリランカには何度か行ったこともあるが、それ以外の外国に行くのは初めてである。

事前にOSAKAから来たという父親の友人である日本人に週に2日日本語を教わって、最低限の会話はできるようにしておいた。語学の得意なアルーンは英語とヒンディー語以外にも趣味でフランス語や中国語もかじったことがあった。そんな彼にとって、いくら難しいと言われる日本語でも、旅行に必要な言葉をマスターするだけなら大して時間はかからない。

 

日本は2020年にオリンピックが開催された国で、外国人にやさしい国らしいし、アジアの中では安全な国だと父親から聞いていた。

だからアルーンは渡航前にも不安はなく、AKIHABARAやKYOTOへ行くのが楽しみで仕方なかった。父親が若いころに登頂したという富士山にも登ってみたかった。

 

 

TOKYOの空港に到着してアルーンが最も驚いたのは、空港には当たり前にあるはずのセグウェイがどこにもないことでも、和食以外のレストランは多いのにハラールの店がなかなか見当たらないことでもなかった。

アルーンの最初の衝撃は、空港にものすごい数のWi-Fiが飛んでいることだった。カラフルなWi-Fiが無数に飛んでいて、目がちかちかするほどであった。インドでこんなにたくさんのWi-Fiが同じ場所に飛んでいるのを見たことがなかったのだ。

 

「ここWi-Fi飛んでんな!!」

まさかこれが、日本に到着して最初に話す日本語だとは、アルーン自身、全く予想していなかった。

 

春の憂鬱

 

桜が終わり、さまざまな春の花がいっせいに咲きそろうころになると、少しばかり憂鬱になる。

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エッセーと聞いて僕が最初にイメージするのは、川上弘美さんの「なんとなくな日々」というエッセー集だ。

 

中学生の頃の大人びた女友達とのエピソードや、久しぶりに松茸を買ってみたものの料理の仕方に悩んだこと、晴れた寒い日に港に行った話など、作家の日常のとりとめのないことが書かれている。

文庫版(新潮文庫)だと税込みで400円もしないくらいで買える本で、僕はなぜかこの本をひどく気に入っている。

 

気ままに行動する筆者の人柄が好きになったからか、彼女ならではの感受性や繊細な風景描写に惹かれたからか、あるいは単純に、川上さんのような自由(そう)な生活に憧れるからなのかもしれないー作家さんは締め切りに追われたりして実はサラリーマンなんかより自由じゃないのかもしれないけれど、この本を読んでいるとそういったものを感じないのです。

 

「なんとなくな日々」の真ん中あたりに、「春の憂鬱」というエッセーが載っている。

最初に引用したのが、そのエッセーの冒頭だ。

例年春が終わるまで沈みこんで過ごしてしまう筆者は、小学生の少年の話を聞いていてあることに気づく。

 

教科書に載っていたのか、先生がプリントで配ってくれたのかもう覚えていないが、「春の憂鬱」を小学生か中学生のときに学校で読んだ記憶がある。

ふーんと思いながら、なんとなく、いい話やなあと思って、これを読んだころから国語という教科のなかでも、エッセー(随筆)というジャンルを好きになった、気がする。

 

実を言うと、小学生の頃の授業中のことなんてほとんど覚えていないから、そうやったかもしれへんなあぐらいの気持ちで書いているんだけれども。

 

 (※小学校か中学校のとき、と書いていますが、あとで調べたら、高校の教科書に載っていたようです。春になるとこの投稿がよく読まれるので、一応訂正しておきます。)

 

「春の憂鬱」という言い回しを知ってからというもの、たまたま春に憂鬱な気分になると、「ああ、これも春の憂鬱やな」なんて思って心の中で小さく笑うようになった。

 

 

ついこないだも、少し憂鬱な気分になったのだ。

 

先日、自分が住んでいる下宿から自転車で10分ほど東に行ったところにある京都の白川通り沿いの王将で夕飯に天津麺を食べた。

バイト先の人から、京都の市街地の少し北のほうにある宝が池の王将が京都では一番おいしいという話を聞いて、一度行ってみようとチャリを漕いでそこに向かってみたものの、待ち合いの席に人が収まらずに行列ができるほどの満員だったので、今回はやめようと思って白川通り沿いの店舗にしたのだった。

 

食べ終わって店を出て、夜の白川通りを眺める。

ここから少し南に下ったところに、仲の良い友人が以前住んでいた下宿がある。その部屋は、友人らのたまり場になっていて、何度も集まって鍋をしたり、ゲームをしたり、寝泊りしたりしていた。

 

当時集まっていたメンバーの多くは就職して、その部屋に住んでいた友人も別の家に引っ越してしまったから、もうその部屋で集まることは二度とないだろう。

 

去年までなら、「今から行っていい?」なんて連絡して、夕食のあとにでも遊びに行っていたのに、もうそれができないのかと考えると物悲しくなり、寂しい気分になった。

 

知らないうちに時間は流れていて、昼間の大学では自分より5歳くらい年の離れた1回生を、いろんなサークルの新歓部隊が囲っている。そういう姿を見ると、自分がもうずいぶん歳をとってしまったように感じるし、大学という空間も、もう自分の居場所ではなくなってきたなあなんて思ってしまう。

 

以前の自分は学部5年目の人を見て、大学生活を長い間満喫してていいなあ、楽しそうだなあ、ぐらいのことしか思っていなかったのに。

実際に経験してみないと、当事者の気持ちなんてわからないものだ。

 

 

そんなことを思ったあとで、2か月前に友人に借りた本を読んでいると、こんなことが書かれていて、はっとした。

 

(前略)心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕えることが出来る。

吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』(岩波文庫

 

孤独や寂しさを感じて憂鬱になるのは、人間が本来、人と深くかかわりながら生きていくものであるからであり、ネガティブな気分はそのことを気づかせてくれ、人とのかかわりを求めるように、促してくれるんだろう。

ふとしんどく感じたときなんかに、自分が本当はどうありたいのかを考えてみるのって案外大事かもしれないな。

 

そんなことを思い、ご無沙汰していた友人に連絡をとったりして、春の憂鬱をふりはらってみる。自分もちゃんと来年社会人になれるように努力しないとな、とも思う。

 

川上弘美さんが憂鬱な気持ちのときに小学生の男の子に教えられたように、憂鬱なときに読む本も、必ず何か気づかせてくれる。

 

 

www.shinchosha.co.jp

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