考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

急がない生き方のススメ

 

 

 

 『パパラギ』というすてきな本がある。

今から百年ほど前、南太平洋の島に住むツイアビという人が、世界で最も「進んでいる」ヨーロッパを訪ね、そこで見たこと、感じたこと、考えたことを、帰ってから島の仲間たちに話してきかせた。その話をまとめたのがこの本だといわれている。

題名の「パパラギ」とは、島のことばで白人とか、ヨーロッパ人とか、文明人とかを意味する。パパラギのくらしぶりや考え方にはツイアビさんをびっくりぎょうてんさせることがたくさんあった。なかでも彼が驚いたのはパパラギが「時間」に対してどういう態度をとるか、だった。

 たとえば、ツイアビさんはこういっている。

「パパラギは時間について大騒ぎするし、愚にもつかないおしゃべりもする。といって、日が出て日が沈み、それ以上の時間は絶対にあるはずはないのだが、パパラギはそれでは決して満足しない」

 ツイアビさんの報告によれば、パパラギはいつも時間が足りないことを嘆き、天に向かって「もっと時間をくれ!」と不平をいう。彼が見たヨーロッパにはひまのある人はほとんどいなかった。誰もが、「投げられた石のように人生を走っ」ていたという。

(中略)

で、そんなことをしていて、結局、誰が得をするのだろう?いや、誰の得にもなりはしない。ではなんで?

ツイアビさんは結論した。これは伝染病の一種に違いない、と。

彼をそれほどびっくりさせたヨーロッパは、まだ人々が馬車で行き来していた時代だった。

 

辻新一「『ゆっくり』でいいんだよ」

 

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いま、脳は、軽視できない警告を発し続けています。わたしたちは働きすぎだ、と。過労によるストレスを負い続ければ、鬱、心臓病、脳卒中、がん、その他多くの疾病を発症するリスクが高くなります。

 それにもかかわらず、私たちは健康を損なうリスクを負いながら、とくに欲しくもないものを買うためにとくに楽しくもない仕事に精を出しているのです。それが自由市場資本主義です。政治家やCEO(最高経営責任者)や銀行経営者にとっては、人類が成し遂げた社会組織の最高の形だとか。

 テロの恐怖に脅えることはあっても、肥満を恐れる人はそれほど多くありません。とはいえ、統計的には、テロよりも肥満のほうが命に対する危険は大きいのです。ストレスや過重労働がどれだけ寿命を縮めることになるのかは不明ですが、常に軽いストレスを感じながら、一日中、机に向かって仕事をすれば、肥満に陥ることはわかります。

もし、一日何時間かのんびり過ごせば(木陰で毛布を広げてその上に寝転び、おいしいワインを飲みながらであればもっといいでしょう)寿命が何年か延びるとしたら、わたしたちはきっとそうするのではないでしょうか。

 

Andrew Smart「できる人はダラダラ上手ーアイデアを生むオートパイロット機能」

(原題) "AUTO PILOT THE ART&SCIENCE of DOING NOTHING"

 

 

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自殺者約二万七〇〇〇人、引きこもり約七〇万人、うつ病患者数約九五万人…。こういた数字について、僕たちに何が言えるだろう。日本人はまだまだがんばるのが足りないのだろうか。それとも、がんばりすぎ?

 がんばっても、がんばっても経済はうまくいかず、経営もうまくいかない。もう何十年もうまくいかないのだから、そろそろ、がんばること自体を考え直したほうがいいいのではないだろうか。そしてこんなふうに問うのだ。

「がんばる経済」は確かに「がんばらない経済」より、優れているのか?

「がんばる経営」のほうが「がんばらない経営」より、上等だというのは本当か?

「がんばらない社員」が「がんばる社員」より、劣っているというのは本当なのか?

みんなで一度大まじめに考えてみるべき時が来ていると、僕は思うのだが。

 

辻信一 「『しないこと』リストのすすめ」

 

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数日前、風邪をひいた。

 

 

ゆっくり家で休もうと思い、暇つぶしにのんびり読めそうな本を探そうとして図書館に行き、偶然、辻さんの「『ゆっくり』でいいんだよ」というタイトルの本を見つけた。

 

風邪をひいた週は、バイト続きで、しかも卒論のこともやらないといけないから休む暇がなかった。忙しくして体を酷使したせいで風邪をひいてしまったんだと思い、反省の意味でもこの本を読もうと、借りてみた。

 

読んでみると、今まであまり考えてこなかった「時間」についての考察がたくさんあって、たくさん気づくことがあり、おもしろかったので、関連書もいくつか読んでみた。

 

その中で特に印象的だった部分を引用したのが上の三つなんだけど、皆さんはどう感じただろうか

 

 

 がんばることと、忙しくすること

 

日本人の僕たちは当たり前のように小さいころから「がんばれ」と言われ、「がんばろう」と声をかけてきた。けれども、がんばるというのは、今よりもペースを速めること、もっと言えば忙しくすることに他ならないのではないか。

 

これは、辻信一さんが著書の中でよく指摘することだ。

 

 

僕たちは小さいころから試験で点数をつけられて競わされ、他の人や、あるいは過去の自分よりも上にいくことをよしとされてきた。(念のためにに言っておくと、これは決して先進国で共通ではない。北欧には中学まで学校で試験をしてはいけないというルールを設けた国もある。)

試験で高得点をとるためには、試験日に間に合うように、急いで勉強しないといけない。のんびりしてたら試験範囲を網羅できないかもしれないのだから、忙しくしないといけなくなる。

 

 

学校を卒業して就職すれば、おそらく多くの企業ではより良い成果を上げることを求められる。決められた期限のなかでたくさん成果を出そうとすれば、のんびりしてはいられないと感じるだろう。

 

もちろん、内心だらだらしたいと思っている人は多いだろうし、できる限り”こっそりと”手を抜いたり、怠けたりすることを意識的に、あるいは自然にしている人はたくさんいるだろう。そういう人が多数派だと信じたい。

 

けれどもいまだに、少なくとも社会規範としては、日本人はがんばることを美徳として信じて疑わないんじゃないかと思う。

 

 

そういう僕も、勉強面でとてもスパルタな人に育てられたのもあってか、ついついがんばってしまう、怠けるのが苦手なタイプの人間だったなあと思う。

 

少なくとも大学まではがんばって勉強してきて、1浪の末、京都大学に合格したし、

大学でも、勉強以外にもサークルや生活費を稼ぐためのアルバイトなどに精を出してきた。

浪人までの期間、同世代の他の人たちと比べて多くの時間を勉強に割いてしまっていることを自覚していた。

だからこそ大学に入ってからはそれ以外のことをたくさん経験したいという気持ちがあって、かなり貪欲に、多くのことを短期間に経験してきたように思う。

つまり、大学に入っても、やることが勉強から他のことに広がっていっただけで、結局同じように忙しい時間を送ってしまっていた。

 

 

けれども、いろんな本を読みながらまじめに考えれば考えるほど、がんばったり、忙しくしたりすることはよくないことなんじゃないかと思えてくるのだ。

 

 

個人の話

僕は大学で臨床心理学を専攻してきた。

その関係で、臨床心理士精神科医の書いた本などをたくさん読んでいたが、

のんびり自分のペースを大事にして生きることを進めている本がかなり多い。

 

それを読むだけでも、多くの現代人が急がされ、自分でも忙しくしてしまい、そのせいでストレスが溜まりすぎて精神疾患に陥ってしまっているのだ、ということをひしひしと感じる。

 

日本という国は、大学生へのプレッシャーも強いんじゃないかと思う。以前、京大のカウンセリングルームの人の書いた留年についての記事がネットで話題になった。

留年について-カウンセリングルーム(京都大学)

 

自由の学風とか、のんびりした雰囲気がひとつの特徴でもあった京大の学生でさえも、

「ストレートで就職しないといけない」というプレッシャーを感じずにいられないほど忙しい世の中になっているとしたら、それはかなり嘆かわしいことだと思う。

 

 

みんないったい、何に急いでいるのだろうか、そして、何に急がされ、がんばらされているのだろうか?

世間?教育?マスコミ?家族?それとも、自分自身?

 

忙しくしないと落ち着かない、暇にしてると不安になるとしたら、その気持ちに従って忙しくする前に、どうしてそう感じてしまうのか、一度落ち着いて考えるべきなのかもしれない。

家族を養わないといけないとか、借金を背負っているわけでもないのに、忙しく働かないと生活できないとしたら、少し生活の水準が上がりすぎているのかもしれない。お金でしか買えない、本当に必要なものってなんだろうか。

 

 本当に必要なもののために、必要な分だけ働いているのだろうか。

 仕事が好きな人はたくさん働けばいいかもしれないけど、働きすぎると体に悪いだけでなく、稼いだ金でたくさんのものを買って消費を増やせば、残念ながらそれは、限られた資源の無駄遣いにもつながってしまいかねない。

 

 

社会の話

 

「個人は忙しくしないほうが幸せになれるのかもしれない。けれど、労働年齢人口が減少しているんだから、みんなが働くペースを下げてしまうと、社会が立ち行かなくなってしまうんじゃないか」

 

そんな心配をするような責任感の強い人が日本にどれだけいるかわからないが、そういったまじめな人にこそ、知ってほしいことがある。

 

過剰による貧困

昨年話題になった新書「ポスト資本主義」の著者である広井良典教授は、その本のなかでこんなことを言っている。

 

「生産性が最高度に上がった社会においては、少人数の労働で多くの生産が上げられることになり、人々の需要を満たすことができるので、その結果、おのずと多数の人が失業することになる」ということである。

(中略)

まさに現在の先進国で生じている事態である。

 

広井さんは、物資の不足が貧困を意味していたかつての時代と比較して、生産性が上がったことによって必要な労働の量が減り、その結果失業者が増えて、たとえば若者の生活保護受給者が増えているような今の日本の状況を、”過剰による貧困”と表現している。

 

この問題の解決策として広井さんが著書のなかで紹介しているのが、近年のヨーロッパにおける時間政策および、広井さん自身が考案した人生の中のワークシェアリングの考え方である。

時間政策とは、人々の労働時間(正確には賃金労働時間)を減らし、その分を地域や家族、コミュニティ、自然、社会貢献などに関する活動にあて、つまり”時間を再配分”し、それを通じて全体としての生活の質を高めていこうとする政策だ(OECD(2007))

 

広井良典 「ポスト資本主義」

 

また、人生の中のワークシェアリングとは、学校(大学)卒業後から定年までの間ずっとフルタイムで働き続けるのではなく、途中数年間、たとえば余暇に使うとか、大学院に入りなおすといように、余暇と労働を織り交ぜた人生を歩むことである。 

 

 

前者は一日、あるいは一年といった短いスパンのなかで余暇の時間の割合を増やすことで、

後者はかつてより長くなった人生のなかで、余暇にあてる時間をすべて老後に回すのではなく、若いうちから少しずつ余暇を楽しみ、労働とのバランスをとっていくということだといえるかもしれない。

 

 

このようにして、限られた仕事をシェアしていく必要性を広井さんが訴えているように、一部の人が長時間働いて富を蓄積すればするほど、他の人に仕事が回らなくなり、格差は広がってしまう。

つまり、社会全体のことを考えても、働きすぎはよくないと言える。

 

 

 

残念ながら、時間政策のような画期的な政策をまだまだ日本政府は取り入れようとしないだろう。

また、北欧諸国のように、若者向けの社会保障が充実していないから、仕事をしばらくやめて余暇を楽しんだり、仕事をやめて大学院に進んだりするのは経済的な意味で難しいことかもしれないけど、貯金をためたり、奨学金を利用するなどすれば工夫次第で可能なことだと思う。

 

 

こんなことは、借金もなく、養う家族もいない人間の甘い考え方なのかもしれない。

 

けれども逆に言えば、そういう人間が不必要に無理して働くことは、もっと大変で本当にお金を必要としている人間から仕事を奪っているのかもしれないのだ。

 

 

 

都会と田舎では時間の進むペースが全然違うというから、今の世の中でも

みんなが忙しくなってきてると一概には言えないだろう。

 

だけど、もし、最近あわただしくなってきたなあと感じるのならば、

がんばること、忙しくすることが本当に正しいのか、

怠けること、休むこと、のんびり過ごすことは本当にいけないことなのか、一度ゆっくり考えるのがいいと思う。

 

 

 

 

all for allの意味について

 

 

"all for all"と書かれた民進党のポスターを皆さんは見たことがあるだろうか。

 

 

民進党前原誠司さんの出身地である京都では、彼の顔写真に”all for all”の文字が添えられたポスターを最近よく見かける。

他の民進党議員のポスターにもこの言葉が載っているのかどうか僕は知らないので、

この記事が京都ローカルなものになってしまう可能性は否めない。が、書こう。

はてなって京都の会社やし。

 

 

 

そもそも選挙ポスターなんて、注目する人の方が少ないのだろうか。

 

僕は公務員試験の勉強をきっかけに政治に興味を持ちはじめ、街中の政治ポスターにもよく目が留まるようになった。

どの政党のポスターも、何の具体性もない無意味なポスターやなあと思っていつも見ているのだが、その無意味さが逆に滑稽でおもしろくなる。

 

"all for all"もまた、ラグビーの合言葉をもじっただけやんけしょーもな!と思って見ていたのだが、今日たまたま京大の図書館で見かけた本の中に同じことばが出てきて、その意味にうなったのでちょっと紹介しよう。

 

 

 

イラストが異様に多い政治の本

「18歳からの格差論」という本をご存じだろうか。

store.toyokeizai.net

 

僕の通う京都大学のメインの図書館には少し前に、入庫したての本を並べる本棚ができた。

だいたい一か月以内に入庫した本が入庫した日別に分かれてずらりと並んでいる。

お目当ての本を探す前に、そのコーナーにおもしろそうな本がないか、ふと立ち止まって覗いていく人は多い。

 

僕もそのうちの一人だ。

 

社会保障や格差問題には以前から関心があったので、今日たまたま並んでいた「18歳からの格差論」を手に取って開いてみる。今年の6月に出た本らしい。

 

18歳からのってことは一応大学生以上向け、もしくは選挙権持った年齢以上向け、ということなんだろうが、それにしてはイラストが多いし、それに比べてページごとの文字数が少ない。

「10歳からの~」でもいいんじゃね?などと思いつつ、目次を見る。

一章の一節目のタイトル「格差を是正したいですか?」に惹きつけられて、じっくり読むことにした。読んでみると、ああこれは18歳からやな、と思うような内容もたくさんあった。

 

 

目次

18歳からの格差論 | 東洋経済

 

 

普遍的な社会保障が必要な理由

 

この本の筆者は慶応大学の経済学部教授で、専門は財政社会学らしい。(そんな名前の学問分野があることを僕はこの本を読むまで知らなかった)

 

本で書かれている内容を僕なりに4行で無理やり要約してみると、

1,自分と異なる立場の人のために税金を払うことに寛容でない人が今の日本には多く、

2,一部のお年よりが子育て世代への保障に反対したり、若者がお年寄りの年金を減らすべきだと考えるような世代間対立もある。

 

3.経済の悪化に伴う収入減により中間層の税負担感が高まり、生活保護などの低所得層対象の給付への視線も厳しくなっていて、増税への反対意見は強い。

 

4,そういった状況のなかで税による格差是正を進めるためには、中間層や高所得者にも利益が及ぶ社会保障を作るべきだ。そうすれば税の恩恵を受ける経済的弱者への嫉妬は減り、社会の分断は和らぐだろう。

 

 

というような内容だ。

(嘘だと思ったら是非読んで確かめてほしい。)

 

 

そして、4の話をするときに”all for all"という言葉を使っていたわけだが、もしやと思ってネットで筆者の井出さんを調べたら、やはり民進党と関係があった。

 

どうやら、今の前原さんのブレーンを務めているらしい。

 

www.nikkan-gendai.com

 

 

 

受益者を増やす社会保障について、皆さんはどう感じるだろうか。

たとえば北欧では大学までの学費が無料だったり、失業保険や老後の年金、子育て給付など、あらゆる世代への社会保障が充実していて、その分税金は高いが国民の満足度は高いと言われている。

それに比べて、いや、OECDのほとんどの国と比べて日本は、税金が圧倒的に安く、社会保障額も少ない国である。

 

僕は年金を受給できていない70代の女性と以前から仲良くしていることもあり、上記のような普遍的な社会保障が日本にも必要やなあと思っていた。なので井出さんの意見には大いに賛成している。

寄付やNPOだけでは格差はなかなか縮まらないし、受益者への嫉妬も消えないと思うのです。

 

とはいえ、世論の多くが増税延期に賛成してる今の日本じゃ実現は難しいんやろうなあ。

 

 

社会保障についての問題意識を持った人間が、社会にどんな風に働きかければいいのかよくわからず、とりあえずブログでも書こうと思った次第です。

 

 

「18歳からの格差論」の内容と似たようなことが書かれてる井手さんの記事を見つけたので、それをシェアして今日は終わりにしよう。

news.mynavi.jp

 

 

 

 

9月3日に東京に行った話②ユニークなお金の使い方

 

前のブログを書いたとき、文章を書くモチベーションが上がっていて「短いのを何度か、しばらく続けて書きます」などと言ってたのに、2本目さえ書けないまま3週間以上がたってしまった。

 

kikikiron.hatenablog.com

 

久々にブログの閲覧数なんかを見てみると、誰にも読まれていない日があって、ああ、やっぱ書かないとこうなるんだなと、当たり前のことを確かめたような気分になった。

 

 

久しぶりなので最近の自分の状況の書いておくと、来年度以降の就職はいまだに決まっていなくて(来年3月に大学を卒業するつもりでいる)、20代の残りの期間、どんな場所でどんな働き方をするのがいいかなどを、普段と違う場所で働いたり、いろんな人に話を聞いたりしながら考えているところだ。

 

新鮮な経験をしたり、おもしろい話を聞けたりすることが多くてとても充実した日々を過ごしているんだけど、自分でもいろんなことを考えているうちに、様々な方向に思考が飛んで行く。

頭の中で考えている内容が日々どんどん変わっていって、少し落ち着かない。

こういうときこそ、毎日少しでも文章を書いたほうがいいのかもしれないと思う。

 

忘れたくないことも多いし、まとめて記憶しておけば、どんな経験でもあとで何かしらに生かせるような気がするから、とりあえず、物理的に不可能じゃない日は、1日30分程度、ブログに向かおうか。全部を公開するつもりはないけれど。

 

そうそう、最近数か月ぶりに話した好きな先輩から、普段人とのコミュニケーションの中で自分が感じたことを、2年間書き続けているという話を聞いた。

それを通して、自分という人間の輪郭を描き出し、自分がどういったことにストレスを感じ、あるいはどういったコミュニケーションに居心地のよさを覚えるのか、といったことを考えながら、人間関係に関する抽象的な思考を鍛えているらしい。

 

自分も数か月くらいは、文章を書くことを続けられたらいいなと思う。

 

 

9月3日に東京に行った理由

 

前のブログには、東京に行って考えた内容のうち、最も書きたいと思ったことを一切書いていなくて、そもそも東京に行った理由さえ、載せていなかった。

 

僕がこの日に東京に行った目的は、数年前から応援してきた、Living in PeaceというNPOのミーティング見学に行くことだった。

児童福祉施設の建て替えの費用を集めるなどの活動をしている団体で、詳しいことは以下のリンクまたは本(上:ホームページ、下:このNPOについて詳しく書かれた書籍)を読んでもらえたらと思う。

 

認定NPO法人Living in Peace

働きながら、社会を変える。|書籍|英治出版

 

 

東京で土曜日の昼に行われるミーティングの場で、上の本を読んだときからファンだったこのNPOの人たちと話すことができ、長い間(といっても3年くらいだが)あこがれていたその代表の方にもお会いすることができた。

 

ミーティングを見学し、メンバーの方々と直接話すことを通して、信頼できる団体だと確信したので、今後も苦ではない範囲で(学生の間は月1,000円だけ)定期的な寄付を続けることに決めた。

 

 

ミーティングの場から出て、帰る方向が一緒だったメンバーの方とも別れたあと、しばらく東京の街を散歩することにした。

 

とてもスピーディーに議論がなされるミーティングの場にいたせいで、黙って見学するだけだった自分も頭がフル回転していたし、あこがれの団体の人と話せた興奮が強く残っていた。散歩をしようと思ったのは、そんなヒートアップした頭をクールダウンさせるためだ。

 

興奮を冷ましたいときや、逆にネガティブな感情に襲われたときには、僕はよく外を歩く。ゆっくり足を動かすことで、頭に上った血を全身に戻せるような気がするし、遠くを見ながら体をほとんど無意識的に動かすことは、気分をほどよくポジティブにしてくれる。

 

NPOで今こういった取り組みをしてて、本業をしながらも空いた時間で子供の貧困を少しでも削減するために一生懸命働いている人がいる。まだ本業も決まっていない自分は、いったいどういった職場で働くのがふさわしくて、社会に対してどういった働きかけをすることが可能なんだろうか」

「社会問題にアプローチするにはやっぱりお金や、お金についての知識が必要で、そういった知識を実践的に得られる仕事に就いたほうがいいんだろうか。お金さえあれば、たとえ時間がなくても寄付という形でNPOの取り組みを応援することはできる。けれど自分には、金銭的な支援をするよりも現場でより直接的に働きかけるほうが向いてるような気もする…」

 

 

今回はミーティングの時間があまりにも刺激的だったせいで、ずいぶん歩いたけれど興奮はさめなくて、僕は人通りの多いある駅の前を通り過ぎようとしていた。

 

 

駅前では、黄色い上着を着た学生が、別のNPO法人の寄付を呼び掛けている。

聞けば、国際的な人道問題にアプローチしている世界的なNPOの、日本支部のメンバーらしい。

国際系のサークルにかつて所属していたこともあって、海外の社会問題にも多少の関心を持っている僕にとっては、そのNPOはとても有名な団体に思えたのだが、それでも月々1000円以上の寄付をする会員は、欧米の国々に比べて日本ではとても少ないのだと、その大学生は少し悲しそうに話していた。

 

いろいろ話を聞いてから、頑張ってくださいと声をかけて去った。

 

「やっぱり日本人にはまだまだ寄付をする人が少ないんだろうか。けれど日本にはすごい数のNPOがあるから、たまたま一つのNPOに寄付が集まらないからってそう決めつけるのはおかしいな。」

 

今年の正月に石垣島図書館で読んだ寄付についての本(下にリンク)の内容を思い出しながらそんなことを思ったあと、

「社会を変える」お金の使い方|書籍|英治出版

その日泊めてもらう友人の住む地域に向かう電車の中で、日本人の寄付について調べてみると、「日本人があまり寄付をしない理由」などと、寄付が少ないのを前提に書かれた記事が多かった。

 

日本では寄付というのは、まだまだ少数の人がする、ユニークなお金の使い方のようだ。

 

 

大してお金に余裕のない大学生が月々1000円の寄付をする理由 

 

今僕はバイトを3つかけ持ちをして、家賃スマホ代等の固定費を除いて月に7万円ほど使えるだけのお金を稼いでいるのだが、今月から月1000円の寄付(登録制で、毎月自動で引き落とされる)を始めた。

 

最初から無理をして途中でやめたくなかったので、あえて最小限の額にした。1000円であれば、友人と飲む場所を居酒屋から自宅に変えるか、1日の食事を具なしのうどんやパンなどの質素なものに変えれば節約できる額なので、今後自分が経済的に苦しんでいるときにもなんとか続けられるだろうと思っている。

 

 

寄付と聞くと、慈善活動とか社会貢献といったイメージを持つ人が多いかもしれないけれど、僕が寄付をするのはそんな高尚な理由からじゃない。

単純に、「自分のお金を、ほんの少しでも、日本社会を自分にとっての理想に近づけるために使いたいから」だ。

 

僕にとっての理想の社会が、「どんな環境で育った子供でも、ある程度将来の経済的な自由が保障される社会」で、それに近いことを目指しているのがたまたまLiving in Peaceだったので、そこに寄付をすることにしたというだけだ。

 

 

普通、社会なんて個人の欲望では決して変えれないもんだと思うけど、お金を使って、ほんの少しでも、社会を自分の望む方向に近づけることができるのが「寄付」という仕組みなのだと思う。

 

それに1000円の寄付なんて、社会に実際に与えるインパクトよりも、自分の欲求を満足させる意味合いのほうがずっと大きい。

 

 

 

これからも、僕は自分の欲望を満たすために、寄付をしていこうと思っている。

 

いつか、もっと直接的な方法で、できれば多くの人に喜んでもらえる形で行動を起こせたらいいんだけど。

 

 

 

この文章で何が書きたかったかっていうと、たぶん、寄付ってそんなに割が悪くないよってことだと思う。