考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

障害のある人とかかわる仕事をしていて感じること。

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先日この記事を読んで強く共感した。

ぼくが働く奈良市の法人もアート活動に力を入れているところなんだけど、メンバーがアートを通して自分を表現することでスタッフがその人らしさに気づき、そこに魅力を感じていくことでその人がその人でいられる。メンバーが自由だからそれにつられてスタッフも自分らしくいられる。そんな感覚を、ぼくはアート活動をするところとは別の部署にいるんだけど、外から見ていて受け取ることがある。

 

 

この素敵な記事のなかにこんな話が出ていた。(引用)

メンバーと関わっての気付きや発見は、必ず社会の役に立つものになっていると思っていて。だからもっと福祉関係者の人たちが、自分たちの気付きや、世に人が生きていくために何が必要か、というものの価値を表現しないといけないですよね。

 

そうそう。気づきや発見がこの仕事をしているとたくさんあって、まだ働いて1年にも満たないんだけど、今仕事のなかで感じていることを書き留めてみようと思う。

 

 

”その人”の見え方はその人と周りの人との関係のなかで決まる。

これはよく思うことで、例えば自閉症の人で、真っ黒のフードをかぶって怪しい格好で歩く人がいるとする。何も知らずに偶然道端であったら、ぼくはその人を怖い人だと思って避けるだろう。

けれどもし、その人が実はほかのメンバーやスタッフと話すのが好きで、おもしろい関係性を気づいていることに気づいて、実はある個性的な才能で評価されていたってことを知ったらすぐにその人の見え方は変わってくる。

 

その人がどう見えるかを決めるのはその人自身でもなければ見ている側でもなく、その人と周りの人との関係性なんじゃないかと思う。

 

ならば自分がもし、評価されたいとか、よく思われたいと思うなら、自分が変わろうとするよりも、今のままで自分が周りといい関係を気づける、そんな場所に身をおくのがいいのかもしれないし、そうやって居場所を替えることが無理だとしたら、別の場所で自分がほかの人たちとおもしろい関係を気づけていることを今いる場所の人に知ってもらうことも有益なんじゃないかな。

 

 

役に立たなくても存在していていい。

多くの人は仕事で結果を出したり、人の役に立つことを求められているのかもしれないけれど、障害のある人とかかわっていると、本当にそんなことはどうでもいいと思えてくる。

知的障害のおっちゃんは存在してるだけでおもしろくて、全然働いてないからってイライラすることなんてないし(たまにそう感じてしまうことはなくはないけど)、自閉症でただご飯を食べてテレビ見て寝る、みたいな生活をしている人も、見ていて癒されるというか、易きに流れるのがきっと人間や動物の本来の姿で、それを極めているこの人すごいって思ったりする。

 

たぶん、働かなくなっても生きてる価値があるのは自分も同じで、今たまたま働けるから働いているけど、後天的な障害などで働けなくなっても別に自分の存在価値が下がることはないし、仕事ができる、できない、で人を評価するのって浅はかだなあとつくづく感じる。

 

 

日本の、自分が住んでいる地域にも全く違う世界が存在する。

自分がこれまで生きてきて、障害のある人とかかわる機会は、大学でのバイト経験までほとんどなかった。けれどこの仕事をして、養護学校を卒業して障がい者枠で働く人たちに出会って、彼らが彼らのペースで、考え方で、いわゆる健常者とは違うコミュニティのなかで魅力的に生きていることを知った。

 

それは外国に行くのと同じくらい新鮮なことだった。そこにいる人たちが大事にしているものは僕がそれまで生きてきた世界の人と立ち比べてはるかに多様で、少なくともみな僕とは全然違ったし、あたりまえだけど、その人の人生を生きていた。

 

 

かかわりを楽しむことが一番重要なんじゃないか

最近感じているのはこれ。重度の障害のある人にいくら身辺自立や働くことを求めたって、いくら時間をかけても無理なケースはたくさんある。でもその人の親は、その人がいてくれるだけで幸せだと感じていたり、親が一人でいる寂しさをその人の存在が埋めてくれたりしているんだとホームヘルプに入って感じることがある。

そういった人との、集団でのかかわりのなかで僕らが求められているのは、その人が、たとえ働けなくても魅力的に見えるようにしてあげること、つまり、最初の話に戻るんだけど、その人が魅力的にみられるように僕らがその人とのかかわりを本気で楽しむことなんじゃないかと思っている。

 

 

ボーナスの使い方

65歳以上で無年金か、毎月の年金支給額が16000円程度しかない人が、日本には40万人以上いるらしい。高齢者3500万人のうちの1~2%。
そのうち生活保護も受給せずに働いて暮らしている人がどれだけいるかはデータがなくてわからない。

1円も年金をもらったことがない知り合いが偶然、身近にいる。
今その人は73歳なんだけど毎日ひとりで、自宅としても使っている建物で民宿の仕事をしながら暮らしている。

その民宿は京都にあり、外国の人にも人気の宿で、彼女は高齢になってから少しずつ英語を覚え、電子辞書を片手に京都を訪れた世界中の人たちと英語でコミュニケーションをとる。

決して流暢ではないけど(僕も人のことを言えない)、文法も多少は意識して学び、日々の仕事でたくさん話しているから、高校や大学を出た多くの日本人より英語で外国人とコミュニケーションをとるのが上手だと思う。彼女は高校も中学校も出ていない。50~60年前では珍しいことではないのだろうけど。

久しぶりに訪ねたとき、足腰の衰えを僕に話した彼女は、仕事をやめれば生活保護を受けることもできるんだろうけど、彼女はそれを選ばない(プライドや、働けるうちは働くという意思がある)。

もし生活保護を受けるとしたら、おそらく彼女の体が今以上に衰えて本当に働けなくなったときで、そのときに彼女はきっと、自分の夢を叶えることができなくなっている。

73歳の彼女には夢がある。
民宿に訪れてきて仲良くなったお客さんのいるヨーロッパを旅行するという夢。
60歳を過ぎてから一度旅したことのあるローマに、もう一度行きたいと思っている。

国籍や年齢層を問わず、多くの人に母親のように慕われる彼女の宿には、ヨーロッパからのリピーターも多い。「今度私の家に遊びにきてよ」と、住所を書いて渡されることもある。「今度行くよ」と笑顔で返す彼女が、実際にお客さんの家を訪れたことは残念ながら、一度もない。

休暇の多いイタリアの旅行客は、10日間の日本旅行をshort trip と言うらしい。彼女はそれを羨ましく思っている。

自営業だから休もうと思えば休めるはずだけど、海外を10日もかけて旅する資金的な余裕は彼女にはないし、10日間働かないとその間の収入もなくなり、生活していけなくなる。彼女の収入は、宿泊してくれた人が渡してくれる宿代が全てで、毎日働いていても余裕のある生活ができるほどではないのが現実。


まだ25歳の自分は生きてさえいれば海外に行くチャンスはたくさんあるんだろうけど、もうすぐ74歳になる彼女が海外に行けるのは何年後までだろうかと思いながら、来月自分の口座に振り込まれるはずの、決して多いとは言えないボーナスの使い道を考えている。

1000字で雑感をつづる。

 

新年度が始まって1ヶ月が過ぎ、職場にきた新人たちとの出会いや新しく入ったコミュニティの人たちとの関わりなどもあって浮かれた気分になっている。春はいつも落ち着かない。調子を崩したりすることが今年はなく、むしろ自然と楽しい気分になっている。

 

去年の秋から始めた職場で半年以上が立ち、職場での立場も変わり、後輩に教えることも出て、より深くコミットするようになった。障害のある人たちとの関わりがとても楽しくて、いい仕事に巡り会えたものだと思う。資格を取ったら自分の最も興味のある分野に転職するつもりでいたんだけど、それがしばらく先になってもいいと思うくらい、今の仕事が面白い。一方で、デンマークに留学していたときの同期が転職して新しい仕事につき、そこで新しい価値を生むような取り組みをしていることを知って、自分ももっと、何かを生み出すことを、自分の内側や身近なところだけでなくて、外にいいものを発信していくようなことをしたいなあとも思う。

 

一方で、普段仕事でいろんな人とかかわっていると、一人でいる時間がとても贅沢におもえる。人と話すのも一人で過ごすのもとても大事で気持ちいいんだけど、そのバランスを崩さないようにして行けば、今後もうまくやれる気がする。

 

休むこと、自分を守って回復する時間。部屋にこもったり、誰も周りにいないような広い自然のある場所で、飽きるまで過ごしたりすること。オフラインにして、思いたいことを思い、感じる。

 

この前なんとなくやってみた夜の散歩で、とても居心地のいい池を見つけた。夜の時間は誰も人がいなくて、池の周りの芝生に座って裸足になってコーヒーを飲みながら考え事をするのが最高に気持ち良くて。普段考えることが、どれだけ周りの人やものに、影響されているのかを思い知った。見知らぬ人や、こうして今図書館で思いを綴っているときに向かいの席にいる全く話したこともないような人の存在でさえ、自分の思考に少なからず影響を与えている。誰もいない場所と人のいる場所で、考えられる物事の範囲にすごく差が出てくるんだ。

 

これからどんな風に生きていくとか、彼女と付き合い続けるか別れるかとか、大事なことを考えるときは、人のいない場所で考えたらいいのかもしれない。もっと自由に、本心から思っていることに向き合えるような気がするんだ。

 

迷ったらまた、歩いてあの池に行ってみよう。夜、虫の鳴き声しか聞こえない静けさが、自分を縛っているものの存在に気づかせてくれるから。