考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

「社会がどこまで受け入れられるか」ということ

 

PCの充電が残り20%で、コンセントのないカフェにいるのでさっと書いてみる。

 

大阪精神医療人権センターというところから精神病院に面会にいる活動を一昨年の暮れごろからしている。先日、大阪北部の病院に行き、今日は大阪の南森町にある事務所で広報誌の発送作業の手伝いをしていた。先日の面会で印象深い出来事があったり、今日事務所で、このNPOの活動に携わっている人たちと、封筒に書類を詰める作業をしながら話していたから、いろいろ思うことがある。

www.psy-jinken-osaka.org

 

現在でも30万人弱の人が精神科病院または総合病院の精神科に入院していて、人口あたりの患者数や入院日数は他国に比べて長く、頻度の増えている身体拘束が近年問題視されている。

 

国もそのことは問題視していて退院促進を進めていて、家族や地域での一人暮らしが可能な人は以前に比べてサポートを受けながら退院しやすくなっているようだが、病院側がなかなか退院を許可できない、でも本人は入院生活がつらく退院したい、というようなケースの人が、人権センターに支援を求めて電話などをしてくる。

 

僕はこのボランティアを始める前にもいろいろと本を読んだりして知識としては知っていたのだけど、患者の入院日数というのがこの国では、患者の症状だけでなく家族の意向に大きく左右されることを、面会を通して思い知った。

 

家族が退院に好意的で受け入れ体制が整っていれば退院しやすいし、身寄りがいないとか、家族との関係が悪く家族が入院の継続を希望しているケースになると入院期間が長くなってしまう。

 

病院スタッフは、患者を守り、患者の回復を支援すると同時に、患者を家族から離すことで家族を支援するという意識を持っていることがある。

 

本人が退院を望むけれど、家族が受け入れられなけいというのであれば、さまざまな居宅支援サービスや地域資源などを使って一人暮らしをするべきだと僕は思う。

 

けれど、病院スタッフにいらいらしてあたってしまう患者や、精神的に不安定な人を退院させることを病院側が認めることは現状難しいし、そういった人を社会に帰すことに病院側は当然責任も感じる。

 

人というのは、家族のものでも病院のものではないはずんだけど、「責任能力の無い精神病の人が問題を起こしたときに誰が責任を持つのか」という問いに対しての答えは、今の日本では家族であり、精神病院なんだろうと思う。後見人がいれば後見人かもしれない。

 

 

「病院から出せ」と看護師や医師に激高する患者さんを、それがたとえ、入院のストレスで怒っているだけで、病気の症状でないとしても、一度試行的に退院させて、一人暮らしをさせてみるだけの大らかさが、今の、僕が暮らしている社会にはないと思うし、その人を受け入れてくれるような地域の居場所が(いくつか、受け入れて支えてくれる場所を知ってはいるけれど)十分にあるとは思えない。

 

「社会が変わらないと施設(病院)の環境もよくならない」と、あるデンマーク人が言っていたという話を聞いたことがある。(デンマークノーマライゼーションの言葉が生まれた福祉国家だ。)

この言葉の意味の一部は、「社会が寛容でなければ、そういった厳しい環境に受け入れてもらい、暮らしていけるだけの状態になってからしか外には出れない、だからどうしても施設(病院)のスタッフはその人に求めるレベルが高くなって、施設での生活も管理的で厳しいものになる」ということなのかもしれない。と思った。

 

どこまで異質な人を受け入れられるか。障害のある人、病気の人に対して周りの人たちがどれだけ知識を持って、忍耐強く受け止めて関わっていけるかといったことが変わっていかない限り、気分が不安定な人が、その人の望む生活を叶えるのは難しいままなんだと思う。難しいからこそ、支援する側としては、おもしろくてやりがいがあるってのもあるけど。


沖縄日記。辺野古さんぽ

2日目、午後。


 スターバックスで少し休憩をしてから、辺野古へ向かうことにした。米軍基地が近い北谷(ちゃたん)のスターバックスは外国人が多く、ドライブスルーでも店員と客が英語で話していた。店内でも米兵らしき背の高い男性と、その彼女と見られる日に焼けた日本人女性が仲よさそうにレジ前に並んでいる。米兵が来てから70年以上がたった今の沖縄では、当たり前の風景なんだろう。


 店内でアイスラテを飲みながら、戦争の年に沖縄県知事に赴任した島田叡さんのことを調べていた。北谷町の図書館で「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」という本を見つけて読んでいた。そこには、沖縄への米軍上陸を前に大阪府の内務部長から沖縄県知事に赴任した彼の、沖縄県民に寄り添う姿が描かれていて、その勇ましさに感動していた。

 

県知事の打診を受けたとき周囲の反対の声に対し、「俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」と言って沖縄に飛んだという彼は、知事として県民に命を大事にすることを繰り返し訴え、軍上陸の前に多数の県民を避難させたが、自身は戦争の最中に壕で亡くなったらしい。

 

車に乗り、ナビで辺野古への道を調べる。北谷から1時間弱。途中からは島の東側の大通りを走っていけば着くらしい。

沖縄は4月でも暑く、少し停めていただけで社内は熱気がこもっていた。エアコンをかけ、ラジオ沖縄を聞きながら道を進む。途中まで道は少し混んでいたけど、しばらくするとずいぶん田舎町の景色になっていき、車も減っていた。

 

 名護市に入る。キャンプ・シュワブの門が右手に見え、少ししたところで海の方に曲がったら、小高い場所に休憩所があった。広場の休憩所から、川を挟んで向こう側の住宅地が見渡せる。住宅地といっても、それほど家が密集しているわけでもなく、小さな畑もところどころにあるような、のどかな場所だ。休憩所の近くに平和の塔と書かれた石碑が立っている。平成7年に立てられたものらしい。50年前に米軍が計画していたという辺野古基地が、今になって”移設”という名目で、作られようとしている。


 埋め立てがされている様子を見ようと、海の近くの通りをさらに北へ進む。大通りには沖縄3区の補欠選挙のポスターが貼られていた。玉城知事とともに映る、移設反対派の候補者のポスター。その週の日曜日の選挙では、その人が勝ったらしい。民意がどれだけ明らかになっても、基地建設を、日本政府はやめようとしない。


 郵便局のすぐそばの空き地に車を泊めて、少し散歩をしてみることにした。向かいのアパートの前の広場で放課後の子どもたちが遊んでいる。

 通りを南に少し歩くと、小規模多機能と書かれた介護事業所があった。子どもの多い沖縄でも、高齢化は進んでいるんだろう。沖縄戦を経験した世代の人たちが、ここを利用しているのかもしれない。
 さらに歩いたら海辺に出ることができた。南側のキャンプシュワブの方向に、大きなクレーンや船が見えた。その周りが大きく囲われているのは、埋め立てに反対する船が入ってこれないようにするためだろうか。


帰り際、すぐ近くの小さな山を登って、上から辺野古の海を見下ろす。たしかに綺麗な海だ。「この海を汚すな、自然を破壊するな」と叫ぶ気持ちはよくわかる。
けれども、じゃあ元々汚いからって大阪湾に空港を作るのは良かったのかとか、これまでも人間のために、海は埋め立てられてきて、自然はたくさん破壊されてきたんだとも思う。ただ、この埋め立ては、その土地の人たちの気持ちを無視して、外の人間が勝手に、沖縄のためではなく日本やアメリカのために、自分たちの土地を汚している。そのことに対する反発や怒りは最もだと思う。

 

沖縄は、戦後もずっと差別を受けてきた。米軍によって住民がボリビア強制移住をさせられた時代や、憲法も適用されず、国の保護を受けずに自力で自分たちを守らないといけない時代があり、今も沖縄の住人が自由に入れない土地が、島のいたるところにある。

 

そのことを、基地の負担を引き受けない他の県の人たちはめったに意識することもなく、沖縄の人たちがどれだけ声を上げても、内地の人たちに届くものはほんの一部で、多くの日本人が沖縄に旅行に行くのに、基地問題が全国的に国政選挙の争点になることはない。


「沖縄の苦しみを、少し察してほしいとは思う」と、普段僕から聞かない限り沖縄の話をめったにしない、沖縄出身の友人が言っていたことがある。

 

地上戦で多くの人が家族を失ったこと、内地に移住しても差別に苦しんできたこと、そして近年、沖縄が基地に依存しない経済発展を進めていること。

僕もつい最近まで知らなかったことばかりだけど、多くの人に知ってほしいと思う。

 

辺野古のある名護市から、那覇へと続く329号線は、海が綺麗に見えて最高に気持ちいい。

今晩は友人のお母さんがステーキ屋に連れて行ってくれるらしい。ラジオで阪神が珍しく大量リードしているのを聞きながら、那覇に向かった。

 

f:id:kikikiron:20190424155341j:plain

f:id:kikikiron:20190424155459j:plain

www.okinawatimes.co.jp

ryukyushimpo.jp

 

bookmeter.com

www.kinokuniya.co.jp

www.sogensha.co.jp

bookmeter.com

bookmeter.com

 

リンクは僕が読んだ本の紹介です。

 

 

 

 

日記を書いてから、

 

 

ばあちゃんが亡くなってバタバタしていた直後くらいから、宿直明け以外に休みのないハードな12日間がやってきてそれが昨日で終わり、今日は久しぶりに朝ゆっくり休める日だった。

9時くらいまで寝た後最近はまってるポケモンのゲームをしたり、クロスバイクを修理に出そうと自転車屋に持っていったりして、昼からは1ヶ月ほど日本に一人旅に来ているデンマーク人の友人と奈良で会って、一緒に大仏を見たり鹿と戯れたり日本酒を飲んだりしていた。

 

僕は留学していたわりにはあんまり英語が話せないし(かと言って聞いて理解するのはできるかというとそれも微妙だ)、今回はたぶん1年ぶりくらいに英語を話す機会だったからコミュニケーション大丈夫かなあと思っていたけど、その友人が僕の下手な英語を上手に理解してくれたおかげで、いろいろ話せてありがたかった。

 

ブランクがあったけど、以前話せた言葉は変わらず話せるし、その友人の使ってる言葉をもらって自分も話したりして、こうやってちょっとずつ語彙が増えていくんだろうなあと思って、なんだか安心した。スピーキングも、スキーや自転車とかと同じで一旦体が覚えたら忘れないものらしい。初歩レベルに限った話かもしれないけど。

 

とにかく、これからも下手でもいいから臆せずに話していこうと思う。

そして、臆せずに話したいとき、アルコールはかなり役立ってくれる。

nihonshuは偉大だ。

 

全然関係ないけれど、最近、文章を書く依頼が来たので、その内容について少しここに書きながら考えてみようと思う。

 

僕が月に一回程度面会ボランティアをしている、大阪精神医療人権センターというところの広報誌に、面会をしている理由やボランティアの体験について短い文章を書いてほしいと頼まれた。できればそこにデンマーク留学で見聞きしたことも含めてほしいと。

 

デンマークで見聞きしたことをまだほとんど発信できていなかったので、精神医療に関心のある人たちが読む広報誌でこういう機会が与えられてありがたい。

一方で、文字数に限りがあるし、いろんな関係者や当事者に配慮した表現をするという制約があるから、個人的なブログというこの場で、これを機に、少し書きたいことを書きたいように書いてみようと思う。

 

僕がボランティアを始めたきっかけ。

母親代わりに自分を育ててくれた、今は亡き祖母が・・・とかって書くと、少し読者の共感を得やすくなるんだろうか。

 

直接のきっかけは、ばあちゃんの精神病院への入院だったと思う。

見舞いに行ったとき閉鎖病棟に入っていたばあちゃんが僕に言っていた病院の厳しいルールに対する文句はとても全うに思えたし、直感的にも、その精神病院はちょっとおかしいんじゃないかと感じた。

 

閉鎖病棟で、本や新聞が患者の刺激になるから禁止されるのは百歩譲って理解できるとしても、日記も書けず、部屋に時計も無いのというはいくらなんでもやりすぎなんじゃないかと思った。

自分でもこんな環境にいたらおかしくなると思ったし、刺激の無さ過ぎる環境で人が幻覚や妄想を起こしやすいことは大学の認知心理学の授業で学んでいた。だからこの環境があまり治療的なものではないんじゃないかと思い、日本の精神病院のことを図書館で調べて現在まで続く人権侵害の歴史を知り、その数ヵ月後にデンマーク福祉国家のメンタルケアの歴史や今を少しだけ、学んだ。

帰ってきてからフィンランドスウェーデンの事例も本で読んだりして少し知ったけれど、日本と北欧で、精神病患者の置かれる待遇は全く異なる。

自分が見たり読んだり聞いたりした少ない情報を一般化するのはよくないけれど、僕が見たデンマークの精神病院では患者は一人部屋を与えられ、共用スペースで他の患者とテレビゲームをし、したければジムで理学療法士の指導ののもと筋トレをしたり、体育館でバスケをしたりすることができたし、包丁を使った料理や木工をすることもできた。そして精神病院のスタッフは患者に生活習慣を整えることを教え、他者との適切なコミュニケーションのとり方を学ぶ機会を与え、社会復帰を主眼に置いたかかわりをしていた。ちなみにこれは、殺人などの重度な犯罪をした精神病患者のいる病院の話だ。

 

一方、日本の一部の精神病院では、10年以上入院している患者が医師から外出の許可をもらうことができず、ずっと病院内で過ごしているということが少なくない。

これは必ずしも、病院の医師や看護師が悪いのではないと思う。専門職の数が少なかったり、病院にいる人間が忙しすぎて患者にじっくり関わることが難しいといった構造的な問題は大きいと感じている。僕がこれまで、問題があるとされている日本の病院で出会った医師や看護師やケースワーカーの人たちは、どこにでもいるような、ある意味普通の人たちだった。人は置かれた状況や周りにいる人たちの影響で言動や考え方が変わる。

 

僕がデンマークで患者以上に羨ましいと思ったのは、患者に関わるスタッフだった。

自分のものさしで人をはかるのではなく、その人の考え方を知る努力をし、たとえ言語化してわかりやすく伝えてくれることがなかったとしても(そういうことのほうが多いだろう)、その人に見えている世界やその人の価値観を知ろうとして、自分と違う人の心を冒険していく、その楽しみ方を知っているようだった。

 

精神病院に社会が求めていること、つまり他害行動のある患者から社会を守る役割と、患者一人ひとりを保護しながらその社会復帰を支援する役割、その2つのバランスをどうとっていくかという悩みを、現場のスタッフが持っていることも、魅力的に思えた。このタイミングで退院するべきかどうか。患者のことを決めるのは医師だけではない。悩みながら目の前の人と関われるというのは、幸せなことだと思う。

 

日本へ帰ってから、日本の浅香山病院の患者と、看護師の物語を撮った「オキナワヘ行こう」という映画を見る機会があった。そこには患者の願いをかなえるために奮闘する看護師と、あまりにも久しぶりの外泊や旅行を不安に思って心が揺れ動く患者さんの様子が、ユーモアを交えながらも、ときにはシリアスなタッチで映されていた。そんなことをしている、そしてそれを映画にすることでこの世界を開いて行こうとする、そんな病院も日本にはあったのかと驚いた。

ちなみにこの映画は監督の意向で、自主上映しかされていない。

 

僕は今、精神病院の外側で生きていて、でも時々、ボランティアを通してなかに入っていくことができている。

一方で、何十年と精神病院に入院している人は、ときどき、病院の外の世界を見たり、退院して外での生活を始めたりもする。

その環境の厳しさを知りながら、ただ病院の外のほうがいいとか、自由がいいとかいう自分のものさしで図らずに、中の人の気持ちを、見えている世界を冒険しながら、何かしらその人の役に立てたらいいなあと思ってほんの少しだけ関わらせてもらっている。

 

長くなったけど、本音をだらだらと書くなら、こんな感じかな。