その日の夕方、僕は先生の家のベランダで南の空を眺めていました。ベランダは、すすきと秋の空の色が調和して、とてもいい眺めでした。
おつまみとビールを頂きながら、久しぶりに会ったその先生に、この数ヶ月の間に起きた出来事と、それに伴う心境の変化について話していました。
これまで、家族の問題を自分の問題として抱えて、進路を決めてしまっていたこと。
具体的には、自殺や精神病というものを小さい頃から身近に見聞きして強いネガティブな感情を抱いて生きてきた自分が、臨床心理士という仕事を、当然のように、カッコつけた言い方をすれば使命感のようなものをもって志してきたこと。
その目標が、この数ヶ月間の間に起きた、いろんなことをきっかけに消えていったこと。
数ヶ月前までの僕は、臨床心理士という仕事の存在に、救われていた部分がありました。自分がしんどい体験をしたからこそやろうと思える仕事だし、そういう体験をしたからこそ、その仕事を通してできることがあるかもしれない。
そう思い、臨床心理士を目指すことは、過去の辛い経験を意味のあるものにしてくれていました。
一方で、その思いに縛られ、苦しめられていたことも確かでした。
将来の進路を考えるときに過去の辛い体験がベースにあると、一生その問題と一緒に歩んでいかなければならないように思えました。その苦しみからいつまでも解放されないように感じて、結構しんどくなっていました。
その全てが、再び荒れた家族のメンバーとの関わり、旧友の自殺、いろんな人との会話や、本との出会いを通して、変わっていきました。
ベランダで話をしていた先生は、こだわりを持ってはいけない、自分の主観に縛られてはいけないと言います。強いこだわりがあるから人を傷つけてしまうし、自分も苦しめてしまう。
自分の意見を持つことの大切さを同時に話してくれた先生は、感情を伴う偏った信念に囚われてしまうことの怖さを教えてくれたのかもしれません。
そして、自分以外の人の主観、つまり、自分からすれば客観の、平均値を知りなさいと言いました。過去のできごとでなく、自分が他の人たちに何を期待されているのか、どんな仕事を、どんな生き方を期待されているのかを知って、それを大事にして行動しなさい。と。
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『どのような教育が「よい」教育か』
そんなタイトルの本があります。早稲田の大学院出身の苫野さんという方が、教育にまつわるさまざまなアポリア(難題)を、どのように考えていけばいいのかを教えてくれる本です。
論理が明快で読んでいてすごくすっきりします。ヘーゲルやフーコー、イリッチやアーレントなど、著名な哲学者や教育学者の言葉も多く引用されていておもしろい本で、僕はノートを取りながら読みすすめています。
その本の終盤で、アメリカの教育哲学者であるエイミー・ガットマンの提唱した、「理性的熟慮」という言葉が挙がっています。
理性的熟慮とは、
もしも子どもたちが親やコミュニティの宗教や習俗から抜け出したいと欲するのなら、その可能性を開きうるような思考力のことである。
ガットマンは、理性的熟慮を、教育が育むべき必須の力能だと考えたようです。
家族や所属コミュニティーの価値観や考え方が自分を苦しめるものであった場合、この力能は本人が幸福に生きていくためにとっても重要です。
すなわち、今まで自分が生きてきた価値観や常識ーそれは多くの場合家族や所属コミュニティの影響を強く受けているはずですがー、それが現在の自分を不自由なものにしてしまっているとき、この理性的熟慮があれば、自らをより自由なものに解放することができ、「生きたいように生きる」ことができるようになります。
この思考力は、自分と異なる他者の価値観をしっかりと受け止めて、そこから自分の価値観を照らしていく作業を通して身についていくものだと僕は思います。
僕は周りからよく変って言われるけど、それはたぶん、おかしな家族で育ったことだけでなく、僕を変っていう周りの人が知らないコミュニティーに僕が属しているからで、実はそのコミュニティーではもっと変な人がいっぱいいたり、逆にそのコミュニティーの価値観が僕からすれば逸脱しすぎていてついていけなくて、そのコミュニティの中でもやっぱり僕が変って言われることもあります。
何の話や。
僕が言いたかったのは、変って思われる僕は結構気楽に生きていられてるってことかもしれません。僕からしたらみんなどこか変だし、日本人自体グローバルな視点で見たら変なことだらけなんだから、変でもいいやんかと。お前一人変なところで誰も大して損はしないぞと。
何の話や。
中学、高校の頃の僕は、当時自分の家族で起きた出来事をまあまあしんどく感じていて、そのストレスが短期的なパーソナリティ、もっと軽めの言葉で言うと長期的な機嫌に影響していたことがよくありました。
家族が大変だ、しかし学校は安全だ。だから学校では気楽にしていていい。子供ってなかなかそうは思えないもんです。
意外と大人だってそうかもしれません。
ついついピリピリしてしまったり、小さなことに傷ついたり、逆に無意識に人を傷つけたり、それでろくな人間関係が築けないってことはしょっちゅうでした。
当時付き合っていた人のことも不必要に傷つけてしまいました。ずいぶん前に謝って許してもらいましたが。
そのせいか、「家庭環境が家族外での人間関係に及ぼす影響はすごく強いんじゃないか」と僕は思っています。
心理学でも、いまちょっと流行り(?)の愛着障害だとか、内的ワーキングモデルの考え方は有名だし、家庭での虐待が子どもの脳を萎縮させたり、一生残るトラウマになったりすることもあります。
でも、すっごく残念なことに、すべての家族を子どもの発育にとってよい環境に変えることは不可能です。
今までそうだったように、これから先も虐待で死ぬ子供は日本で年間50人以上いるだろうし、死ななくても人生に希望を持てない人はたくさんいると思います。
ガットマンがいう理性的熟慮っていう力能を持つことは、家族や育った環境のせいで苦しんでしまっている人にとって、すごく大事ですよね。同時に難しいことだとも思うんだけど。
なんで難しいかって、子どものころの学習環境に恵まれなかった人にとっては思考力をつけること自体きっと簡単ではないし、強迫観念や身体感覚が変化を妨げてしまうことだってたくさんあると思うから。
この辺については詳しくは書かないけど。
少なくとも自分が受けてきた学校教育はそれほど理性的熟慮を育むものではなかった気がするし(無意図的に育まれていたかもしれない)、これからの公教育もどうかわからないんだけど、日常での子供たちや周りの人との関わりの中で、そういった力能を育めるような何かができたらなあと思っていたり、します。
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「あなたは愛されるために生まれてきた」
キリスト教の教会に初めて行った時に、歓迎歌として教会の人たちが歌ってくれた歌の歌詞の一部です。「歌」って漢字がゲシュタルト崩壊しそうです。
一ヶ月以上間があきましたが、この記事の続きです。(笑)
当時家族のことや進路の悩みで苦しみの真っ只中にいた自分は、この言葉にじーんときてしまいました。
苦しいときって、愛されているって感覚、なかなか持てないですよね。苦しくなくても持っていない人も多いかもしれません。僕もそうでした。
イタリアの愛情表現については前に別の記事で触れたけど、日本って愛情表現が少ない文化なのかもしれません。
そのせいもあってか、自分が愛されているという感覚を安定して持てない人は多いと思います。
それが実は慢性的な空虚感や依存性、抑うつにつながっているのかもしれません。
こんなん言うと怒られるかもしれないけど、ぶっちゃけ宗教ってどこまでいっても思い込みじゃないですか。キリスト教はそれが2000年以上続いてるんだから本当にすごいと思うんだけど。
自分が愛されるために生まれてきたかなんかわかるわけないし、今自分が周りの人に愛されているかどうかだって確証は持てないわけです。「おれのこと、愛してる?」って聞いてみればわかるのかもしれないけど、そんなことが聞ける人はすでにある程度自信持ってますよね(笑)
でも、僕はその歌詞を聞いて、「あなたは愛されている」、「私たちはあなたを愛している」って言われることによって、実際に幸せな気分になれたわけです。
愛されてないって勝手に思い込むより、愛されてるって勝手に思い込む方がよっぽど幸せになれるんですよね。それに、そのほうが周りの人のことも確実に幸せにします。自分が愛されていると思っている人の方が、そうでない人よりも他の人を愛しやすいからです。
実際、そのキリスト教の教会は、みんな笑顔で、あたたかな雰囲気に包まれていました。
僕は臨床心理学を何年かそれなりに勉強してきて、深層心理学の意識とか無意識とか、そういうことも学んでいました。その考え方に疑問をもっていたときに、同じく臨床心理を学んでいる友人に、「こころなんか見えないわけやし、ユングの考えもフロイトの考えも、結局のところ仮説構成概念でしかなくない?」って、認知心理学の授業で習った、ぱっと見難しそうな言葉を使って、心理学を学びたての人が持つような疑問を投げかけてみました。
その友人は、「それはそうだけど、その考え方に基づく心理療法が成功してきた事例がたくさんあるんだから、その考え方には価値があるんだ」というような答えを返してくれたと思います。
愛されているという思い込みと深層心理学の概念をいっしょくたにしていいかどうかは大いに疑問ですが、思い込みが自分の心情を決めることはすごく多いです。
じゃあ勝手に愛されているって思ったらいいし、恵まれている方だって思ったほうがいいじゃないかと思います。そう思えるようになるのも、大変なんですけどね。
どんな家族だってきっと最悪ではないし、最高でもないんだから。
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清水寺のあたりで、遠い親戚の71歳のおばちゃんが一人で旅館を営んでいます。
70代とは思えない若さで、どう見てもおばあちゃんって感じがしないから、おばちゃんと僕は呼んでいます。
京都で下宿を始めてから、年に数回遊びに行っては夕飯をご馳走になっています。
その方は大変苦労されてきた方なんだけど、人柄の良さから国内外問わず(フランス人やスイス人の宿泊客が多いそうです)、老若男女問わず、いろんな人に慕われ、「お母さん」と呼ばれています。
親戚ということもあって僕の境遇も知ってくれているので結構深い話もするんだけど、彼女自身がいろんな人の相談に乗っていて聞いたこと、感じたことも話してくれます。
その内容自体は、個人情報を隠してもブログに載せる気にはなれないけど、そこで僕自身考えさせられることもたくさんあるし、おばちゃんが、数多くの人の支えになっているんだなあと思っていつも聞いています。
話を聞くことを仕事にしなくても、40年後、50年後にはこの人のように、「良い聞き手」にはなっていたいなあと思います。
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今回は最近経験したこと、思っていることなんかをつらつらと書きました。
長くなったけどこの辺で終わります。