10月の半ばごろだったか。
その日はたしか、中学が一緒だった友人と会ったあとで、兄の家に泊めてもらう予定だった。
雨上がりの昼過ぎだったと思う。
友人との約束が延期になったから夕食を一緒に食べようと、大阪へ向かう電車の中で兄に連絡した。その前に墓参りに行ってくるから、夕方頃に天王寺で待ち合わせしようと。
その日仕事が休みだった兄は、自分も墓参りに行くと言った。
兄弟2人で墓参りに行くのは、これがはじめてだった。
行きの電車の中では、兄の仕事の話を聞いたり、休学中の僕の近況を話したりした。
兄とは、元気なときは冗談を言ったりして笑いあえる仲だ。
大学に入学してから、毎年誕生日が近付くと墓参りに行くことにしている。
きっかけはとってもささいなことで、「誕生日は、自分を産んでくれた母に感謝する日」というフレーズをどこかで目にしたからだ。
僕の母は、僕を産んだ半年後に死んだ。
育児ノイローゼで精神を病んでいたらしい。
詳しいことはここには書かないけれど、母が死んだ日、僕も死にかけた。
気絶していた僕は、救急車で運ばれ、医師の適切な措置で助かり、そのおかげで22年半たった今も生きられているらしい。
全部、ものごころついてから家族に聞いた話だ。
当時気を失っていた、そうでなくても生後半年だった僕には、この話がほんとかどうかは確かめようがないけれど、こんな嘘をつく理由が見当たらなかったので、今まで僕はこのことを信じて生きてきた。
そういうわけで、僕を産んでくれた母はお墓の中にいるらしいから、感謝をするために僕は墓参りをする。
大学一回生の秋、二十歳の誕生日の前に一人で墓参りに行ったときのことをよく覚えている。
線香も供花も買わず、墓についた汚れをふき取るためのタオルと、墓地の近くの自販機で買ったお供え用の缶コーヒーだけを持って母と祖父の眠る墓の前に立った。
バケツに水を汲んできて掃除をし、缶コーヒーを供え、
手を合わせて目をつむる。
「母さん、あなたが死んでから、家族はしんどいことをいっぱい経験したし、僕も見たくないものをいっぱい見てきました。辛くなって、あなたに生きていてほしいと思ったことは何度もあったけど、今はなんとか元気にやれています。大学に入ってからは、人生が楽しいものだと思えるようになりました。今はなんだかんだ家族もみな元気です。しばらくそっちには行きません。産んでくれてありがとう。」
墓の前で母親に向かって祈り、感謝をすると、すっきりした気分になる。
この感覚を僕は、「スピリチュアルな気分になる」って表現したりするんだけど、周りの友人にはあんまりわかってもらえない。
眠れない夜に下鴨神社に散歩に行ってもスピリチュアルな気分になれるんだけど、これもやっぱり、わかってもらえない。
墓は、小6まで住んでいた土地に近い山の中腹にある。
小学生の頃、友達と必死でチャリを漕いでその山に登り、できるだけブレーキをかけずに下っていくチキンレースをしていた。
僕はびびりだからどうしてもブレーキをかけてしまい、坂を下り終えるのが最後だったな。
電車で墓の近くの駅まで行くとき、当時住んでいた地域を通る。
住んでいた家の最寄だった近鉄山本駅で乗り換えて、山へと向かう電車に乗る。
車窓を眺めながら小学生の頃のことを思い出し、当時感じていたのと同じように、その地域を、外の世界を感じることができる。
家族の都合で卒業と同時にその土地を引っ越したから、ちょっぴり切ない気持ちになるけど、懐かしくて嬉しい。
そんなこともあって、母の命日と自分の誕生日の前後の年二回、ひとりで墓参りに行くのは、僕にとって不思議な楽しみになっていた。
しんどかった家族のこと、自分が生まれたせいで母が死んだという思いこみ、母に愛されてなかったんじゃないかという不安、そんなものを全て、産んでくれたことへの感謝で包んでお墓に置いていく。
すると、
「まあ、なんだかんだ恵まれてるほうだよ」って、思える。
自分の経験からか、母子関係の心理学とか、幼少期の発達心理学には興味を持っていて、それなりに本を読んだ。
読めば読むほど、
「母親ってすげー」って思う。
必死の思いで子供を産んで、ほとんど休む間もなく、育児に突入する。
自分ひとりの時間がほとんどとれず、夜泣きがあれば安定した睡眠もろくにとれない状況で、家事や育児をこなす。
子供のころは、大人ってそういうものって、大人だからそれができるんだって思ってたかもしれないけど、年をとったからって簡単にはできないよ。
もう自分も23になって、おないどしや年下でお母さんやっている人もいるけど、本当に尊敬する。
コウノドリっていう漫画が好きで。
産科医の人が主人公で、病院でのお産や、それにまつわるいろんな困難や課題、もちろん喜びも描いた感動的で勉強にもなる漫画なんだけど、それが今ドラマにもなっている。
録画してまだ見てない人とか、DVDで見るつもりの人にはちょっとネタバレになってしまうけど、たしか二話で、妊婦さんが交通事故で意識不明になり、死ぬ間際に帝王切開で分娩するシーンがあった。
産まれた子の父親に産科医が語りかけるシーンで、「事故にあったときも、自分の頭をとっさに抱えるんじゃなくて、赤ちゃんの身を守ることを優先したんだ」っていうようなセリフがあった。
そのシーンをみて、自分も母体の中で、母親に守られてたんやなっていうことを思った。
たとえ、母親が精神を患って虐待をしたとしても、心中をはかったとしても、育児放棄をしたとしても、生まれる前まで母親におなかの中で守ってもらえたことは、今生きているすべての人にとってきっと事実なんだろう。
そう思って、僕は少しほっとする。
自殺のことがニュースなんかで話題になるたびに、母を自殺で亡くした僕はこんなことを思う。
この世界に、生まれたくて生まれてきた人なんか一人もいないんだから、
死なずに生きているほうがすごいことなんだよ。
死のうとする人を止める権利なんて、誰にあるんだろう。
もちろん、自殺はしてほしくない。
自殺でどれだけ周りの人が苦しむかは、身をもってわかっている。
でも、
生まれたくもないのに生まれた人が、この世界で生きていていいんだって、
自分はこの世界で生きていたいんだって思うのは、決して自然なことじゃないはずなんだ。
生まれたことを祝ってもらって、周りの人に愛されて、成長する中で楽しいことをたくさん経験して初めて、自ら生を終わらせるほどには、人生は辛いものじゃないんだって思えるようになるんだと思う。
だから、死んでほしくないのなら、周りの人をちゃんと愛さないといけないし、楽しませないといけないんだと思う。
大学に入ってから墓参りは一人で行っていたから、兄と墓参りに行くのは新鮮な感じがした。
花を供え、掃除をし、手を合わせ、今回は二本あるお供えの缶コーヒーを一本ずつ手にとる。
霊園の上の、見晴らしのいい場所から大阪の街を眺めて少し話したあと、コーヒーを飲みながら駅へと歩く。
夕食は、昔2人が住んでいた山本の駅の近くの王将で食べることにした。
2人が一緒に住んでいたのは僕が小学校を卒業する前までで、そのあとは家族がバラバラになって、兄とも離れて暮らした。
そこの王将のチャーハンはおいしくて、よく兄や僕が、持ち帰りのを買ってくるように使いに出された。
店構えは10年前と変わっていたけど、味は変わっていなくて、懐かしいといいながら、2人でおいしく食べた。
僕が小学生の頃、兄は荒れていた。
育て親の厳しすぎるしうちに反抗していたが、
そのころから精神病の症状も出ていた。
家の中は暴力をともなう喧嘩が絶えず、刃物が使われることもあったので、小さかった僕は隣家に預けられたり、図書館に避難したりしていた。
ひどい仕打ちをされる兄をなんとか助けたかったが、当時の僕には何もできなかった。
たまに救急車やパトカーが家に来ると変にテンションが上がったけど、
僕はその家にいるのがあんまり好きじゃなかった。
いつの間にか、平和な家庭を築くことが将来の夢になった。
チャーハンを食べたあとで、一人暮らしの兄の家に行って、久しぶりに泊めてもらった。
夜寝る前、お互い完全に子どもの頃の気持ちに戻っていて、地名しりとりとか、首都当てゲームとか、めっちゃしょうもないことをしていた。
大学には行ってないけど、昔めちゃくちゃ頭のよかった兄は、カザフスタンとかコロンビアの首都まで覚えていて、だいぶびびった。
しょうもない話で笑いながら、10数年前、子供部屋で兄と一緒に寝ていたときも、こんなだったなあと思い出した。
兄は話がうまく、人を笑わせるのが好きで、小さいころ、寝る前に二段ベッドで兄の話を聞くのが楽しみだったな。
少し前まで、小学生の頃の楽しかったことをあまり思い出せなかった。
しんどい記憶が先に出てきて、それが自分には強すぎたから、楽しいことを思い出す余裕がなかった。
でも、ちゃんと楽しかったこともあったんだ。
辛いことばかりじゃなかったんだ。
それがわかって、嬉しくなった。
その夜、悪夢を見た。
まだ小さかったころの兄が、刃物で刺されそうになっていた。
兄に気づかれないよう隠していたが、その夢を見てかなりしんどくなった。
記憶っていうのは、あまり思い通りにならないもので、
幸せなことだけ残ってはくれない。
子どものころ、この不条理を忘れてはいけないと強く胸に誓った光景を、ぼくは10年以上たった今でもはっきりと覚えている。
きっとこれから先も、忘れることはないだろう。
でも、
しんどいことばかりじゃないから、
嫌になることばかりじゃなくて、楽しいこともあるから、
これから先も生きていこうと思える。
jpopの曲の歌詞じゃないけど、しんどいことより、楽しいことの方が多い人生にしようとがんばれる。
山あり谷ありの人生の方が、終わってみれば、きっとおもしろいはず。
そう思って、ぼくは23年分の経験を、できるだけ肯定的に捉えようとする。