考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

休みの日に、やめることについて

昨日は一日中用事があってとてもブログを書く余裕がなかったので、今日書くことにしました。

毎週金曜日は夕方からボランティアがあって昼間のバイトも重なったときは忙しいけれど、金曜日に更新できなくても、週末にはなるべく更新するようにしよう。

「金曜日のひとりごと」じゃなくて、「週末のひとりごと」に変えようかな。

 

公務員試験の勉強が今少しピンチなので、今日はやや短めで。

 

 

おととい、僕の同級生の卒業式があって、同じ教育学部の人たちと卒業式後に飲んだり語ったりしていた。僕は卒業しないんだけど、もう一生会わない人もいそうだと、みんな言うのと同じようなことを思って飲み会に参加することにした。

 

6時からの学部の一次会がひと段落したあと、各々サークルの飲み会に移ったり、サークルに入っていない人は学部の二次会に移ったりするんだけれど、僕は教育学部の飲み会のあと、文学部の二次会に参加した。

 

文学部には仲のいい友人が多く、四年間で何度も鍋をしたり、飲みに行ったり、旅行に行ったりと、まあ、言ってしまえば文学部の一部の人たちの集まりが、僕にとってサークルみたいなものになっていたのだ。

 

 

文学部の二次会は、腕相撲大会から始まった。ある男子が女子バレー部のキャプテンに、「運動神経のいいバレー部キャプテンの○○を、男女の性差でこれからねじ伏せます!」などと豪語して挑んで負けるという、お決まりにしてはおもしろすぎる笑いもあった。

 

 

文学部の二次会にはこの日初めて会う人も数人いたけど、フレンドリーというか、無頓着というか、会うのが初めてかどうかなんて大して気にしないところが彼らにはあるので、総じて楽しく過ごせた。

 

初対面の僕が隣にいる場で、まあまあ大変な身の上話をして数人で盛り上がったり、恥ずかしさに打ち勝って一発芸をして爆笑を誘う人がいたり、まあ、お酒のおかげってのもあるんだろうけど、わりとなんでもありで、なんでも受け入れられるような雰囲気がそこにはあったのだ。

 

 

その文学部の二次会の途中で、教育学部の僕と工学部三回生のNくんとで話していたことが個人的におもしろかったので、それについてちょっと書いてみようと思う。

 

 

 

飲み会の場での話なんてころころ転がっていくものだから、まとめるのが難しいんだけど、僕が彼との会話でおもしろいと思った部分を強引に要約すると、

「大学時代に無理に苦しいことを続けようとすることに意味はあるのか」

「苦しくても続けてしまってどんどん悪くなっていくことが、大学のサークルでもあるんだから社会には五万とあるだろう」

「自分のする行為に無理やり“意義”を見出すことに意味はあるのか」

「理想の集団ってどんなだろう」

というような話だった。

 

 

大学のサークルというと皆さんなんとなく、「ただのんびり楽しく好きなことをやっているもの」、「男女の出会いの場」、なんていうイメージを持たれているかもしれないが、実はそれだけでもなくて(まあ100%楽しいなんて現実にあるわけはないんだけど)、何か決めるために例えば深夜までしんどい中ミーティングをしたりだとか、社会的に価値のあると思われるイベントを企画してものすごく労力がかかって苦しんだりすることがよくあるサークルも多い。そして中には、「そうやって苦しむことは社会に出てからきっと役に立つし、サークルのために無理して頑張っている人は素晴らしい」という風潮がある集団もある。それも、少なからず。

 

 

「苦しいことをするのが成長につながる」といった精神論が飛び交う中学や高校の部活動なんかに近いものを、大学生たちが違う分野でやっていると思ってもらえるとわかりやすいのかもしれない。

そこには、サークルであるにも関わらず、やめられない、やめてはいけない雰囲気さえもある。

 

先に、僕やN君の考え方の偏りというか、傾きを指摘しておこう。

僕もN君も、程度や方向性の差こそあれ、一度そういった集団に入っていたがいやになってやめた身である。

だから、やめて別の道を選んだ自分の選択を肯定的に受け止めるというバイアスがかかっているとは思うが、上記のような集団には否定的である。

また、僕やN君の目から見たらそのように見えるというだけで、続けてやってきた人にはそのサークルはそんなに悪いものには映っていないかもしれないという点も指摘しておこう。

 

N君は、「社会に出たらどうせしんどい仕事もしないといけないんだから、大学生のサークルでは楽に、好きなことをやっていればいいじゃないか」という意見で、僕もそれに賛成だ。サークルで苦しい経験をしたことが社会で活かされる保証はどこにもないし、苦しいことに慣れるということは苦しみに鈍感なるというのと同義である。それは気分障害のリスクを高めることにもつながりかねない。

 

そして、苦しくても続けるというのは、企業に当てはめれば業績が悪くてもいつか日の目を見ることを信じて事業を続けるということになって、それは損切りができないこと、つまりリスクヘッジが下手なのではないか、というふうなことをN君は言っていた。

 

 

大学四年間で僕は5個以上のサークルや団体に参加して、10以上のバイトを経験してきたが、逆にいうと、それだけ多く、いろいろなことをやめてきた、ということでもある。

 

それでも、しんどいと思っても1年くらいやめられなかったものもあるから、「やめられない」という気持ちも、なんとなくわかっているつもりだ。

 

「やめられない」という気持ちは、「やめられなかった」として、やめたあとで湧いてくることが多いのかもしれない。というのも、しんどいことを続けているときは、「やめる」という選択肢が見えていないこともあるからだ。

人は、現在苦しくても続けているものに対して意義を見出すそうとする。しんどくても何かそれがプラスになっていると思わないとやっていられないからだろう。そして、自分で考え出した意義のために、あるいは今まで苦しんできた自分を否定したくないがために、苦しくてもその活動を続けようとする。

 

最初にその活動を始めようと思ったのは、決してそのような意義のためではなく、単に「楽しそうだったから」であるにもかかわらず。

 

 

では、どうやってそのような継続のデフレスパイラルから抜け出すことができるのだろうか。

僕が集団から抜けるか、それとも続けるかを決めるときの基準として大切にしているのは、その集団の雰囲気やそこで行われる活動が、「自分の肌にあうかどうか」とか、「そこにいることや、それをすることよって自由な気分になれるか」というような、感覚依存的なものであることが多い。そして、そのような基準で継続を選んだものに関しては、今も楽しく続けられているし、そこから学ぶことも多い。

 

 

 

集団内の人間関係や、行動指針、活動内容など、自分がそこに居続けるか考える際に基準となる要素はたくさんあると思うが、自分の直感や感覚を大事にしてみてもいいと思う。

 

 

自分にとっての理想に近い集団に出会うためには、いろんなところを経験してみないといけなくて、そのためには、今やっていることから距離を置くのも大切かもしれないですね。

 

 

今日はこの辺で。

 

f:id:kikikiron:20160326135900p:plain

 

 

 

週末っていうと、元々はユダヤ教徒の休日の土曜日だったんですね。カレンダーなんかに見られるように伝統的には日曜日が週の始まりだったそう。

今ではヨーロッパでも日曜日が週の終わりになっているみたいだけど。

 

週末ってかなりあいまいな言葉で、金・土・日を合わせて週末と呼ぶことも今ではあるんだって。

それってイスラム教ユダヤ教キリスト教の休息日ですね。

 

週末 - Wikipedia

 

週末のひとりごとも、金・土・日のどれかに更新しよう。

 

                                              週末のひとりごと。2016/3/26(土)