書きながら考えたこと。

1992年生まれ。大学で臨床心理学などを学んだ後デンマークに留学し、帰ってからは奈良で働いています。働きすぎず、のんびりゆったり生きたい。

障害のある人とかかわる仕事をしていて感じること。

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先日この記事を読んで強く共感した。

ぼくが働く奈良市の法人もアート活動に力を入れているところなんだけど、メンバーがアートを通して自分を表現することでスタッフがその人らしさに気づき、そこに魅力を感じていくことでその人がその人でいられる。メンバーが自由だからそれにつられてスタッフも自分らしくいられる。そんな感覚を、ぼくはアート活動をするところとは別の部署にいるんだけど、外から見ていて受け取ることがある。

 

 

この素敵な記事のなかにこんな話が出ていた。(引用)

メンバーと関わっての気付きや発見は、必ず社会の役に立つものになっていると思っていて。だからもっと福祉関係者の人たちが、自分たちの気付きや、世に人が生きていくために何が必要か、というものの価値を表現しないといけないですよね。

 

そうそう。気づきや発見がこの仕事をしているとたくさんあって、まだ働いて1年にも満たないんだけど、今仕事のなかで感じていることを書き留めてみようと思う。

 

 

”その人”の見え方はその人と周りの人との関係のなかで決まる。

これはよく思うことで、例えば自閉症の人で、真っ黒のフードをかぶって怪しい格好で歩く人がいるとする。何も知らずに偶然道端であったら、ぼくはその人を怖い人だと思って避けるだろう。

けれどもし、その人が実はほかのメンバーやスタッフと話すのが好きで、おもしろい関係性を気づいていることに気づいて、実はある個性的な才能で評価されていたってことを知ったらすぐにその人の見え方は変わってくる。

 

その人がどう見えるかを決めるのはその人自身でもなければ見ている側でもなく、その人と周りの人との関係性なんじゃないかと思う。

 

ならば自分がもし、評価されたいとか、よく思われたいと思うなら、自分が変わろうとするよりも、今のままで自分が周りといい関係を気づける、そんな場所に身をおくのがいいのかもしれないし、そうやって居場所を替えることが無理だとしたら、別の場所で自分がほかの人たちとおもしろい関係を気づけていることを今いる場所の人に知ってもらうことも有益なんじゃないかな。

 

 

役に立たなくても存在していていい。

多くの人は仕事で結果を出したり、人の役に立つことを求められているのかもしれないけれど、障害のある人とかかわっていると、本当にそんなことはどうでもいいと思えてくる。

知的障害のおっちゃんは存在してるだけでおもしろくて、全然働いてないからってイライラすることなんてないし(たまにそう感じてしまうことはなくはないけど)、自閉症でただご飯を食べてテレビ見て寝る、みたいな生活をしている人も、見ていて癒されるというか、易きに流れるのがきっと人間や動物の本来の姿で、それを極めているこの人すごいって思ったりする。

 

たぶん、働かなくなっても生きてる価値があるのは自分も同じで、今たまたま働けるから働いているけど、後天的な障害などで働けなくなっても別に自分の存在価値が下がることはないし、仕事ができる、できない、で人を評価するのって浅はかだなあとつくづく感じる。

 

 

日本の、自分が住んでいる地域にも全く違う世界が存在する。

自分がこれまで生きてきて、障害のある人とかかわる機会は、大学でのバイト経験までほとんどなかった。けれどこの仕事をして、養護学校を卒業して障がい者枠で働く人たちに出会って、彼らが彼らのペースで、考え方で、いわゆる健常者とは違うコミュニティのなかで魅力的に生きていることを知った。

 

それは外国に行くのと同じくらい新鮮なことだった。そこにいる人たちが大事にしているものは僕がそれまで生きてきた世界の人と立ち比べてはるかに多様で、少なくともみな僕とは全然違ったし、あたりまえだけど、その人の人生を生きていた。

 

 

かかわりを楽しむことが一番重要なんじゃないか

最近感じているのはこれ。重度の障害のある人にいくら身辺自立や働くことを求めたって、いくら時間をかけても無理なケースはたくさんある。でもその人の親は、その人がいてくれるだけで幸せだと感じていたり、親が一人でいる寂しさをその人の存在が埋めてくれたりしているんだとホームヘルプに入って感じることがある。

そういった人との、集団でのかかわりのなかで僕らが求められているのは、その人が、たとえ働けなくても魅力的に見えるようにしてあげること、つまり、最初の話に戻るんだけど、その人が魅力的にみられるように僕らがその人とのかかわりを本気で楽しむことなんじゃないかと思っている。