金曜日のひとりごと、これで4週目。
先週は、書き終わったときにはもう日付が変わってて土曜日の投稿になってしまったけれど、なんとか継続してやれている。
これからはもう少し、いい文章が書けるように心がけよう。
最近、複数の友人がはてなブログを始めたのを知って、うれしく思った。
読んでみるとおもしろくて、ところどころにものすごく共感できる箇所があって、テンションが上がる。そんな話をその人としたことが全くなかったから、余計に。
友人が普段どんなふうに物事を考えているのかを知る機会は意外と少なくて、例えばサシで飲みに行って熱く語り合ったとしても、その時間で話せることってほんとうに限られている。
しかもその友人と自分との関係性のなかで話題は決まってしまうから、その人がほかの人との間で話す話題を自分は知ることができないし、その人が一人のときにどんなことを考えているかを知るのはもっと難しい。
友人の持つ、自分が知らない側面を、ふたりの関わりの中だけで新しく発見することは難しいのかもしれない。
たとえば長い間交際している相手がいて、会う頻度もそれなりに高くてなんとなく相手のことはだいたいわかっているような気がしていても、共通の友人と三人で初めて集まって話したときに、それまで全く知らなかった交際相手の趣味やエピソードを知ることになった、なんてことは珍しくないだろう。
最近、卒業のシーズンということもあって、自分が普段よくかかわるメンバーが人生の節目節目でどんどん変わっていくことを意識する。大学時代によく遊んでいた友人とも、距離が離れてしまえば年に数回しか会わなくなって、もしかしたら、死ぬまでにあと10回も会わない、なんてことになるのかもしれない。
限られた時間の中で、友人のことをどれくらい知れるんだろうか。
中学のころ、「親しいと思っている人のことを自分は3%も知らないんだろうなあ」なんてよく思っていたけど、実際は3%なんてもんじゃなくて、人生で一番長く、あるいは深くかかわった人のことでさえも、自分は0.0001%も知らずに死んでしまうんだろうと思う。
そんなことを考えると寂しくなってしまうから、ブログを通して友人が経験していること、考えていることなんかを知ることができたらいいと思う。
前置きが長くなってしまったが、ここから本題、じゃなくて2つめの前置き。
2つめは、いい加減決めたい話だ。
どのタイカレーが一番自分の好みか、いい加減決めたいという話だ。
以前タイカレー屋さんでバイトしてからタイカレーのおいしさに虜になってしまった。
タイカレー屋さんのバイトをクビになってからも、別のタイカレー屋さんに食べに行ったり、レトルトや缶詰のタイカレーをよく食べている。
スーパーでレトルトカレーを選ぶとき、僕にとって一番大事な基準は、「タイカレーか、否か」である。
みなさんご存知のように、タイカレーには、主にマサマンカレー、レッドカレー、グリーンカレー、イエローカレーがあるが、その違いはもはや常識なので省く。
最強の缶詰と呼ばれるいなばのタイカレーシリーズの中では、チキンとタイカレーレッドが一番好みだ。
イエローやグリーンもスパイシーで悪くはないが、レッドに比べるともうひとつうまみに欠ける。
缶詰はいなば、レトルトはヤマモリがタイカレーの代表格だが、
300円するヤマモリ(タイダンス)のレトルトタイカレーを一つ買うより安いいなばの缶詰を2つ買って食べるほうがお得かなと思う。
缶詰のタイカレーは、一つ一つが少量で廉価だから複数の味の組み合わせができるところもよくて、イエロー×レッド、イエロー×グリーンなども試してみるとおもしろい。
家で安く食べれるタイカレーはいなばの缶詰がベストかと思ってたんだけど、自分で具材を加えて煮込むタイプ(一番上の写真のやつ)を初めて食べて、缶詰やレトルトとは全く違う風味に驚いた。
鶏肉を加えて煮込むだけと書かれていたから、僕は迷わず鶏むね肉を選んだ。
タイカレーには鶏むね肉が合うからとか、日本人の鶏むね肉の消費量が少ない問題を少しでも解消するためとか、そんな理由じゃない。
単に安いからだ。
このマサマンカレーはピーナッツの味がすごく強くて、原材料のサツマイモがジャガイモみたいな味で、クセになりそうだ。
いなばの缶詰を一位にするのは早計だったのかもしれない。
けれども、タイカレーに惚れてからもう3年がたつんだから、どのタイカレーが一番自分の好みか、いい加減決めたい。
一貫性と矛盾
前置きと本題のギャップがすごい。
僕が高校生のころたぶん一番よく悩んだテーマが「継続は美徳か」ってことなんだけど、それに関しては自分の中であんまり美徳じゃないって結論に落ち着いている。
それに少し近いテーマで、「矛盾はいけないことなのか」っていうのを、大学に入ってから何度か疑問に思うことがあった。
例えば、友達がある宗教を勧めてきて、「この宗教は矛盾がないからいい」なんてことを言ったとき。
「え、ちょっと待って、宗教って矛盾してたらあかんの?そもそも矛盾って言葉を悪いことのように使ってるけど、人間みんな矛盾を抱えてるし、それを受け入れることのほうが大事なんちゃうん?」って、とっさに自分の感覚とは相いれないものをその友人に感じてしまった。
「始めから終わりまで同じ一つの方針・
矛盾を悪、一貫していることをよいこととするのは、理系的な発想なのかもしれないと、文系の僕は思う。
数式や論理には矛盾があってはいけない。
文系の中でも、心理学や精神病理をそこそこ勉強してきた僕は、たとえば精神病の患者さんの支離滅裂な思考や、解離なんかを見て、人間が矛盾だらけの存在だという認識を持つようになり、そういった矛盾の中に魅力を感じるようになってきた。
一方で、仕事の面接などでは、一貫性があることがよしとされているように感じる。他をよく知らないが、公務員の面接では、大学での経験と職業の志望動機がつながっていれば(見方を変えれば過去の関心や問題意識が、就活中の自分のそれらと一貫しているということだ)、高評価を得られ、通りやすいという話を聞いたことがある。
一貫性は善なのか、という問題がここでも生まれる。
「大学時代はこういうことに問題意識を持って取り組んできたけど、仕事では全然違うことをしてみたい」ではなぜいけないのか。
また別のことに関心が移って、仕事をすぐやめられると困るから?それだけ?
今週の火曜日に、同志社大学の近くのインパクトハブ京都という場所で開催されたイベントに参加した。
通信制高校に通う人たちの中退や進路未決定のままでの卒業(ニートになること)を防ぐ活動をするNPO法人D×Pの共同代表の今井さんと、”人”を映すことで紛争中の国や3.11の震災被害地域の様子、日本の貧困問題などを伝える活動をしているフォトジャーナリストの安田さんの対談がこの場所であったのだ。
ふたりの話は本当に刺激的だった。
彼らは昔から壮絶かつユニークな人生を送ってきていて、
(子供のころに親や兄弟を亡くしたのをきっかけに海外に行ったり、高校生のときにイラクで人質になったり…)
人生経験を聞くだけで相当感じるものが多かった。
彼らは決して一貫して一つのことをやってきたわけではない。
安田さんの問題意識や関心は新しい出会いを契機にどんどん変わっていくし、
今井さんはイラクから帰ってきてひきこもりになってから、20代後半までやることが定まっていなかったという。
一貫せずに、いろんなことに関心を持って、追いかけてきて、その中で様々な人と出会ってきたからこそ、彼らは多くの人と交流を深めることができるようになり、今も様々な人に支えられながら活動していけるんだと思う。
フォトジャーナリスト 安田菜津紀 / Natsuki Yasuda|いつも心にお陽さまを。
D×Pが重視している言葉に、社会関係資本というものがある。社会関係資本の大きさとは、簡単に言うと、どれだけ多様なコミュニティに属し、多様な知人・友人がいるかということらしい。D×Pのホームページには、社会関係資本が進路決定に大きく影響すると書かれている。
多様なコミュニティーに属するためには、いろんな関心をもっていないといけないわけで、そのためには、一貫してひとつのことをしているだけじゃいけないんじゃないかと僕は考える。
問題意識や関心は、時がたてば当然変わっていくし、それを素直に追いかけていったほうが、結果的に多様な人とかかわれるようになるはず。
対談のなかで安田さんは学生に向けて、今は自分が取り組みたいと思うような問題が決まっていなくても、いろんな経験をして多様な人と接して、問題意識が生まれたときに役立つようなピース(piece)をたくさん胸に蓄えていくようにと言っていた。
その話を聞きながら僕が考えていたのは、対人援助職に就くものにとっては、経験のピースを蓄えていくときに同時にできる、幅広い分野の人との関わりが、将来仕事にも大きく役立ってきそうだということだった。
仕事をはじめないと実際のところはわからないけれども。
哲学者のように論じることは僕にはできないけど、
一貫性は善かというテーマへのスタンスも、なんとなく固まってきた気がする。
自分はやっぱり、一貫しないで、たくさんの矛盾を内包した人間でありたい。