とりとめのないことを書こうと思う。
職場では今インフルエンザがはやっている。
おととい、感染した利用者さん(僕は障害のある人の暮らす福祉ホームで働いている)の介助をしていたせいか、昨日は僕ものどの調子が悪く、頭も少しだるかった。
体調が悪いのに食欲は異常なほどあり、ホームヘルプやガイドヘルプ先と職場との移動の車内や、仕事終りなど、食べてばかりいた。
本能的なものなのか、僕はしんどいときにやたらと食べる癖がある。
インフルエンザ移ったかなと思っていたけど、しっかり食べてぐっすり眠ると、のどの痛みもなくなり、すっきりしていた。
大して病んでいたわけでもないけれど、病み上がりみたいな不思議な高揚感、ふわふわとした気持ちいい感じが今はあって、こういうときに僕はなぜか、文章を読んだり書いたりしたくなる。
寒い日に入る水風呂
1月上旬に僕は、奈良から青春18切符で岐阜へ行き、みんなの森 ぎふメディアコスモスという、建築がおもしろくて居心地のいい図書館で過ごしていた。今年の5月末にフィンランドに行くつもりでいるから、図書館でもフィンランドに関する書籍を検索して読んでいたのだけど、「フィンランドの幸せメソッド SISU」という本がおもしろく、帰ってから続きを読みたくて購入した。
フィンランド生まれ、カナダ育ちの著者いわく、フィンランドのことば、”SISU”というのは「逆境を乗り越える力」であり、「肉体、精神、感情のいずれにおいても、新たな物事に進んで向き合い、限界を越えていく生き方」のことらしい。
この本の中で、フィンランド人の多くがSISUのマインドを持っている理由のひとつとして、サウナやアイススイミングの習慣が挙げられている。アイススイミングとは、氷の張った湖や海に穴をあけ、0℃~1℃の冷たい水の中を泳ぐことだ。そのあとにフィンランドの人はたいてい、サウナで温まるらしい。
著者のカトヤ・パンツァルさんも最初試したときは水が冷たすぎて体が痛く、数秒で出たらしいが、短い時間からでも続けていると、体が慣れてきて徐々に気持ちいいと思えるようになり、今では毎日アイススイミングでリフレッシュするようになって、そのおかげで長年のうつ状態からも回復することができたそうだ。
僕は銭湯が好きで、なかでもサウナに入ったあと水風呂に入り、リフレッシュした気分になるのが好きだ。仕事を始めた当初、新しい環境で疲れていてネガティブな気分のときにも、これをすることでかなり前向きになれた。気持ちが引き締まって、現状を受け入れたり、以前やろうと決意したことを思い出したりして、前に進む覚悟ができるのだった。
だから、カトヤさんの本に書かれていること(アイススイミングで気分をリフレッシュし、困難に立ち向かう勇気が持てる、というようなこと)はとても納得できた。
そして普段入る銭湯の18℃くらいの水風呂ではなく、それよりずっと冷たい、0℃や1℃のアイススイミングではどんな気分になるだろうかと、試してみたい気にもなった。
とはいえ僕の住む家の近所には湖はないし、池が凍ることもあまりない。凍っていたとしても、水着でそこに飛び込んだりしたら、かなり変な目で見られるだろう。
簡単に疑似体験する方法として、家の湯船に水を溜めてそこに浸かることを思いついた。測っていないからわからないけれど、冬の夜の水道水の温度はおそらく、銭湯の水風呂の18℃よりは低い。
試してみた。
熱いシャワーで体を洗い、温まってきたところで水風呂に入る。
最初は半身浴くらいの水量にする。
足をつけるだけでもかなり寒いから、少しずつ、浸かって行く。
体が震えるほど冷たい。
徐々に正座になり、そのあとお尻を湯船の底につけるというようにして入る。
冷たさのあまり皮膚が赤くなり、30秒も入っていられない。
けれど入ったあとに熱いお湯を体にかけるとかなり温かく感じられて気持ちいい。
サウナがなくても、熱いお湯だけでも満足できるかもしれない。
これは癖になる。
毎日やっていて慣れてくると、1分くらいは入れるようになる。
けれど長く入りすぎると体が冷えすぎて逆効果のようだ。
家だとサウナで温まることができないから、長くて1分程度にしよう。
そうしていると、入浴後ぽかぽかして、気持ちいい。
朝の外気の寒さも、つらくなく、すっきりして気持ちいいものに思えるようになったし、毎日これをすることで、やはり前向きな気持ちになれて、いろんなことに挑戦したいと思うようになった。
免疫もつくかもしれない。今年の冬はこれで乗り越えたい。
アイススイミングや体を鍛えることに興味のある人にはお勧めだ。
ただしこれは心臓の弱い人などには薦められないし、アルコールを摂取したあとにはしないようにしている。
やるときは、無理のないように足から少しずつ入るようにしてほしい。
仕事で雨の日に散歩をする
福祉の仕事は、本当にいろんなことをする。
ガイドヘルプでは利用者さんと一緒に映画を見に行ったり、少し遠出をしたり、温泉や山に行ったりすることもあるのだけれど、肥満気味の利用者さんと1時間半くらい散歩をする、なんていうのもある。
雨の日でも、その人は外を歩くのを楽しみにしているから、傘をさして一緒にでかける。靴がびしょびしょになりそうだったので、この日僕は職場で長靴を借りて行った。
普段、雨の日に散歩することなんてまずないし、インフルエンザが流行っている時期に、雨で寒い中歩いて体調を崩したらどうしようという思いも正直あったけど、自分ではしない経験をさせてくれるのは貴重で、少しおもしろくもある。
川沿いの、好きな道を利用者さんと一緒に歩き、たまに写真を撮ってみたりする。
最近、津久井やまゆり園の事件のことを知り合いと話していた「生産性」というキーワードを思い出したりしながら、歩く。
利用者さんと一緒に散歩をするというこの仕事には、経済学でいうところの生産性はほとんどないかもしれない。
けれど目の前の利用者さんは、とても楽しそうに笑顔で歩いているし、僕自身も、この散歩に価値を見出すことができる。
生産性なんて、なくていいんじゃないかと思う。
ある労働から、多くの価値や利益を生み出すことが生産性の高い仕事だとしたら、個人を対象とした福祉の仕事は、すごく生産性が低いことになるかもしれない。
けれど、利益をたくさん生み出して儲けたからってそれが正義だとは思わないし、それが必ずしも人を幸せにするとも思わない。
僕は究極的には、すべてのものに、価値なんて元々はなくて、人間が勝手に付与したものにすぎないと思っている。
人類やその他の動植物、さまざまな物体の価値や、お金の価値、人が幸せに生きることの価値だって同じ。
じゃあ結局、散歩に価値を感じるのも、お金や利益の創出に価値を感じるのも、同じように、ひとりの人間の勝手な感じ方でしかないんだなと思う。
お金以外のものに価値を見出していきたいなんて今さら言わないけれど、やろうと思えば、日常のルーティーン、散歩や家事や通勤時間(そして、毎日水風呂に入る習慣)なんてものにも、価値を見出すことができて、それで自分が幸せになれるなら、安上がりだし、誰にも、地球環境にも迷惑かけないし、それでいいじゃないかって思う。
そんなことを考えながら、夕方、水溜りの多い雨の日の道を、長靴でびちゃびちゃと歩いていた。
1月がもう、終ろうとしていた日のこと。