考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

眠りにつく前の頭のなかを文字にしたもの

昨日、苦手な環境にいないといけない仕事でかなりメンタル面の調子を崩してしまって、それを引きずっている。

いい加減、しんどいことを無視せずにきちんと向き合ってどうにかしようと思う。
毎回調子を崩すくらいなら、その仕事だけはやめさせてほしいと上司に言ってみるべきだろう。
しんどいまま続けていたら、他の人にも迷惑がかかってしまう。


人の心と言うものは、どこまでも環境に支配されるものだと思う。
人混みが苦手なのに人口密度の高い大阪や京都で25歳までのほとんどの期間を過ごした僕は、就職して人の比較的少ない奈良に来て、苦手でない仕事の方がずっと多い今の職場で、同僚や先輩にも恵まれて、僕は以前より随分気持ちが楽になれたと思う。

職場以外の人間関係も、自分と気の合う、好きな人ばかりになったことも大きい。

それでも仕事でたった二時間、とてつもなく苦手な環境にいるだけで、調子が悪くなるんだから、人は環境に支配される生き物で、自分がどこで過ごすかというのはかなり大事にした方がいいんだろうなと思う。

今回の件は、もしかしたら自分の気づいていない、何かのトラウマにでも関係してるのかもしれないけれど。


思えば高校の頃までの自分は、生きずらさや、ネガティブな気分にばかりなってしまう自分を、過去に虐待を見てきたことや、自殺した人や精神病の人たちに近い遺伝子を持っていることのせいにしたりもしてきた。

けれど今となっては、その解釈は自分が思いたいように思っていたものでしかなく、実際はもっとシンプルで、そのときの自分がただ、しんどい環境に身を置いていただけだったのかもしれないと、今では思う。

大阪という土地が苦手だったのかもしれないし、家族や、部活の人間関係など、自分に合わない社会で過ごしていたからしんどかっただけかもしれない。

その当時の自分には、環境を変える術も、そうすれば楽になるという発想さえもなく、ただ日々の苦しみを乗り越えていくことばかりを、努力した末に成功をつかむことばかりを考えていたように思う。

その後の8年間の人生の一部で、自分が楽だと思える環境に身をおくことができたのは本当に良かったし、楽を求めることで楽になれた経験を得られたのは、もっと価値があったと思う。

労働時間が長すぎると訴えたら短くしてもらえるような職場に、ろくに就活もせずに入れたのは、だいぶラッキーなことだったのかもしれない。

でも全く違う職種で働いている、同僚の彼氏さんも、しんどいからと言って部署を変更してもらって、ブラックな部署から残業がほとんどない部署に移り、一気に元気になったという。

楽になるためにすべきことは、頑張ることではなくて楽を求めることなんだろうと、今の自分は思う。それは一方で事実で、もう片方では、頑張ることが楽をもたらすというのも、必ずしも間違いではないと思うんだけど。

高校の頃、怪我をしてろくに練習に参加できないのに毎日部活の練習に行っていた日々を思い出す。
あの頃の自分は、誰に強制されていたわけでもないのにやめる選択肢がなく、苦しみながら努力することを正しいと信じて疑わなかった。
その日々は今も、苦い思い出として残っていて、それをきちんと、教訓として生かして行きたいと思う。

組織のためにどうすべきかとか、苦しみのなかにおもしろさを見つけるような努力よりも、まず自分の呼吸や、胸のつっかえや、不安や緊張なんかに意識的になって、それを取り払うために状況を変えるべきなんだという信念を、僕はとりあえず今、持っている。