書きながら考えたこと。

奈良で暮らす20代の男の、とりとめのない日々の記録です。

イスラム教徒の友人が神を信じる理由など。

 

クアラルンプールにあるマレーシア国立モスクMasjid Negaraは、セントラルマーケットなどのあるクアラルンプールの観光地の西側に位置している。1965年に3人の建築家のチームによって建てられたこのモスクは、庭を含めて53000㎡の広さがあり、73mのミナレットがある。すべてwikipediaの情報だけど、実際かなり壮観でした。

 

マレーシア人でムスリムイスラム教徒)の友人に連れられてこのモスクを訪れたのは昼過ぎだった。ちょうど礼拝の時間でムスリム以外は入れなかったので、友人は礼拝に行き、日本人で非ムスリムの僕と彼女は近くの地下鉄の駅で涼んでいた。この日もマレーシアはよく晴れていて暑く、日中は30℃を超えていたと思う。

 

ムスリムの人たちはどんな気持ちで毎日5回礼拝をしているのだろう。礼拝中にどんな気分で何を考えているんだろう。休憩している間に気になったので聞いてみた。

 

「願いごとがあるときはそれが叶うように神様にお願いしたり、叶ったときは感謝したりしてるよ」

日本人が神社に行ったりするのと似ていた。

 

 

「○○くんは神を信じる?どれくらい信仰心がある?」と聞いてきたので、「存在は信じてないけど、信じることは良いことだと思う。」と無宗教である自分の気持ちを正直に話すと、彼はこんな話をしてくれた。

 

「僕が学校の先生で君たちが生徒だったとして、僕が悪い先生で嘘をついて、急に「明日テストをします」と言ったとする。○○くんはそれを信じないで勉強しなかった。○○ちゃんは信じて勉強をした。結果次の日にテストがなかったとして、勉強しなかった○○くんはラッキーだけど、勉強した○○ちゃんも、少なくとも知識がついたという意味では得をする。神や死後の世界を信じるか信じないかというのもこれと同じ。ないかもしれないけど、あると信じて良い行いをするのは良いことなんだ。」

 

僕はこの話に納得した。結果がどうであれ良い行いをすることは良いことだし、たとえ死後の世界がなかったとしても、他者にした善行が生きているうちに自分に返ってくることもたくさんあるだろう。周りの人たちが自分と同じように神を信じていて、よい行いをしているという安心感や仲間意識がひとりひとりにあれば、それだけで人は社会を信頼できるようになり、社会は円滑に回るようにも思う。

 

日本人に宗教がないという話は、新渡戸稲造が"Bushido(武士道)"を書いた1900年以前から西洋人らによって指摘されていた話で、それに対して新渡戸稲造神道儒教などに影響を受けた武家の人々の忠義などの考え方を本のなかで西洋人に対して説いていった。

 

それから120年がたった今、インターネットの普及などによって人々の価値観がどんどん相対化され、キリスト教国などでも若者の宗教離れが進んでいるけれど、結局のところ、人は何かにすがらなければ生きていけないと思う。

人によっては、それは誰かが説いた哲学なのかもしれないし、趣味や、他人や、仕事や家族や、尊敬できる人の意見なのかもしれない。

 

ただ、多くの人がすでに言っていることだと思うのだけど、価値観の相対化に伴って、快楽主義とか、直観や感情や欲求に依存する意思決定がたぶん昔よりもはるかに増えてきていて、それに対して、不安定さや脆さや危機感を感じることは少なくない。

 

毎日5回礼拝を行うムスリムの人たちのように、毎日の暮らしのなかに、一人で神と向き合う時間がルーティンとしてあるということが、精神的な安定感にもつながるような気がする。

 

「こうしたい、ああしたい」といった欲望だけでなく、「こうすべき」という、欲に流されずに意思決定するための軸になるものを、自分の内側に築いておきたいなあと、その友人の話を聞いて思った。とりあえず新渡戸稲造の「武士道」は2周くらいは読んでおこう。


まあ、そのの友人もおいしいものが好きで食べ過ぎてかなり太っていたり、Switchのゼルダにはまりすぎてゲーム依存になったりもしてたみたいやけど。人間は皆不完全やからこそ、完全な存在に対して祈り続けるんかね。

 

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