考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

ここ最近の僕の頭の中

 

ここ最近インターネットで人の書くものを読んだり聞いたりしていると、「ニュー・ノーマル」とか「ポストコロナ」なんて言葉をよく耳にするようになった。

 

僕の職場も、どうやらGW以降もこれまでどおり、いくつかある建物間の行き来を最小限に抑える働き方を続けていくようで、検査で明らかになった感染者がいまだ100人に満たない奈良県でも、感染症の拡大を防ぐことを第一の優先事項にするような生き方がもうしばらく続いていきそうだ。

 

仕事以外の時間で僕自身におきた変化といえば、友人たちと電話やZOOMなどで話す機会が増えたことがひとつだ。電話をする相手は、リモートワークになって人と関わる機会が減って寂しいとか、何かと変化が多くて落ち着かないからという理由で(それ以上に夜の予定がないために遠隔で話すだけの時間があるというのが大きいだろうけど)、僕のほうは、同様の理由や、このご時勢にみんながどんな風に生活をしているのか興味があってよく電話をする。結果的に仕事以外で人と話す機会が増えたおかげで、メンタル面がむしろよくなっている気がしている。

 

これに関してはほんと人それぞれ違うだろうけど、僕は対面でのコミュニケーションも好きだけれど電話やオンラインでも結構満足できてしまう性質で、「人の声を聞く」ということでかなり寂しさを紛らわすことができている。このことは、コロナ騒ぎが始まってしばらくたってからpodcastにはまってずいぶんよく聞くようになったことにも関係している。

 

あと、人が考えていることを書いた文章を読むのも好きで。

 

僕も最近考えていることを、大きく3つに分けて書いてみます。

podcastのことと、文章のこと、そして、今後について。

 

podcastの衝撃

スマホspotifyをインストールしたのをきっかけにpodcastを聞くことが格段に増えた。spotfyはスウェーデンストックホルムに本社をおくSpotify Technology S.A.が運営している音楽配信サービスで、無料でも音楽やインターネットラジオなどを聴くことができるアプリ。podcastはインターネット上で音声ファイルなどを公開するインターネットラジオの一種だ(wikipediaより)。

 

おもしろそうなpodcastspotifyで探したり、同僚に教えてもらったものを聞いたり、noteでフォローしているライターがpodcastをしていることを知って聞いてみたりして興味のあるものを見つけていくのだけれど、podcastのなかでびっくりするような情報に出会うことがある。びっくりするような情報っていうのは、これを聞かないとこれからも知らないままだっただろうけれど、こんなに大事なことを知らなくていいのか?と衝撃を受けるもの。

 

そのひとつひとつは、興味を持って日本語や英語で検索すれば、インターネットにもたくさん記事が出てくるようなものなんだろうけど、そもそも知らないと検索しようとも思えない、でもこんな大事なこと知らなかったらやばいよね。というような情報に時々出会うのだ。

 

たとえば、「こんにちは未来」というニューヨーク在住の日本人ジャーナリストと元WIRED日本版の編集長の人がやってるpodcastの、香港のデモを見に行った話を中心とした回のなかで後半に出てくる、中国の新疆ウイグル自治区の人々への中国政府の大弾圧の話や、バイリンガル2人が日本語と英語をそれぞれ使って、あんまり報道されないニュースを掘り下げながら話す「バイリンガルニュース」のなかで出てくる、スイスのクリプト社を通してアメリカが長年各国の機密情報を盗んでいた話など。

 

podcast8.kiqtas.jp

bilingualnews.libsyn.com

 

 

インターネットのおかげで、ある程度広範な情報が多くの人に開かれているのだけれど、アクセスしようとは思うかどうかは別問題だから、なんとなく受身に聞いているだけで情報へのアクセスのきっかけを与えてくれるこういったメディアはほんとにありがたい。

簡単に知ることはできたとしても、知るきっかけがあるかどうか、と、知ろうと思えるかどうか、というのが、情報過多のいまの時代に大事になってきていると思う。「何について知ろうと思っているか」というところでその人のアイデンティティの大きな部分が形成されているのだろうけど、興味関心に関わらず多くの人が知っておくべきことが、報道されず、共有されないままになっていることに時々不安になる。

大事な情報を共有しないままで、市民の政治参加や民主的な意識決定なんてできるはずもないわけで。

台湾のコロナ対応で注目されたオードリータンさんがインタビューのなかで語っている、ラジカルな透明性(Radical Transparency)(ロングインタビューの中盤ででてきます。)を、こういうときだからこそ、政府を始め組織のリーダーたちに求めて行きたいと思う。

 

ふたつ目は、ラジカルな透明性(Radical Transparency)です。わたしが議長を務める会議や、わたしが行ったインタビューなどは、このインタビューも含めて全て録音して、クリエイティブ・コモンズを使って公開しています。記録を見れば、わたしがどれだけ公共の利益のために活動をしているかを判断してもらうことができます。ただ公開するだけなのですが、こうした公開情報がセクターを超えたコラボレーションをもたらすことにもなります。文化の翻訳者のようなものです。(以下のインタビューより抜粋)

 

note.com

英語ですが、Radical Transparencyについての説明↓

medium.com

 

 

文章について

大事な友達が、はてなブログに短編小説を載せていた。障害のある人と旅行に行った僕の話から着想を得たそうなのだけど、想像を広げてストーリーを練って、細部まで情景を描くことを彼が成し遂げていることに感動し、その能力に少し嫉妬もした。

 

sosuru.hateblo.jp

 

僕も小説や本をこれまでたくさん読んできたし、映画もそれなりに見てきたのだけど、フィクションを書くのはずいぶん難しく感じる。練習したらできるようになるものなんだろうか。

 

僕がこうして書いている文章は、実際に見聞きしたこと、読んだり調べたりしたものや、あるいはそうした事柄から考えたことなんかが多いのだけど、自分の頭のなかで世界を広げていくことができたらどんなに楽しいだろうか。

 

ずいぶん前からはてなブログを書いていて、最近はnoteも始めたのだけれど、自分の書く文章を振り返ると、つくづくスタイルというものがないなと思う。ひとつのテーマについて訴えたいことを書くこともあれば、何気ない日常を情緒的に書き留めることもある。こういう幅の広さも含めて自分というひとりの人間を表しているのだろうなとか、仕事で書いているわけではないからぶれてもいいかと思う一方で、特定のスタイルで洗練された文章を書くライターへのあこがれもある。

 

 

今後、社会が内向きになっていくことについての雑感。

 

在宅での楽しみを人々が求めたり、大規模なイベントは当分の間開催されなさそうだったりと、去年までと比べてずいぶん状況は変わっている。バザーやセミナーなど、もともとイベントが多かった僕の会社でもそれは同様で、そのことはHSP気味で人がたくさんいる場所が苦手な僕にとってはありがたいことなのだけど、一方で仕事で関わる人の数が限定されてしまうことについては少し寂しさや窮屈さも感じている。

 

昨日職場の同僚とオンラインで話していたのだけど、イベントのリーダーなどの仕事を積極的に引き受けてきた彼は、意外なことに、主に10人以下の小さなまとまりで仕事をしているいまの状況が自分に合っているといっていた(僕たちは福祉の現場で働くヘルパーなのでテレワークはあまりできないが、感染が広がるリスクをなるべく減らすために普段より少ない人数規模で分かれて働いている)。人数が少ないほうが話しやすいとか、固定されたほうが楽、というのは多くの人が感じていることかもしれない。

 

「他の人と会えなくて寂しい」などという声は確かに職場のなかにもたくさんあるし、その気持ちを紛らわすために部署間でmeetというビデオ会議用のアプリを使って交流したりも時々しているのだけれど、普段たくさんの人との関わりを求められていた福祉現場の人たちにとって、いまの状況はもしかしたらつかの間の休息になっているのかもしれないと、その同僚との話から気づかされた。

 

すべてが一長一短で、この状況にもメリットはたくさんある。あまり頻繁にオンラインで繋がろうとせずに(テレワークで人と会うことが極端ほとんどなくなったり、いまのコミュニティがしんどいようなら話は別だが、そうでなければ)狭いコミュニティをベースとして、少人数の人たちと深く関わる生活を味わってみるのも、案外いいのかもしれない。寂しくなったらオンラインで話したらいいけどね。

 

開きすぎていたものを閉じていくこと、それによって自分と向き合う時間が増えるのはそんなに悪いことじゃないかもしれないなあ。そんなことを、昨日近くの池をランニングしながら考えていた。

 

 

京都にいるときは家の近くの高野川を登って宝ヶ池までよく走っていた。

奈良にいる今は、家の近くの佐保川から鴻池まで走るようになった。

学生から社会人になっても、似たようなことをしている。

 

思えば、ランニングするようになったのもかなり久しぶりだった。

内向きになったときに戻っていける”自分”がいることが、ちょっとした安心に繋がっている。