書きながら考えたこと。

奈良で暮らす20代の男の、とりとめのない日々の記録です。

エッセイを書きたくなってから出会った2冊の本のこと。

 

小説を書いている友人に触発されて最近、文章を書くことをもっと積極的にやっていきたい思いに駆られている。

 

とはいっても自分が書きたいのは小説ではなくて、エッセイのような、なんとなくページを開いて、どこからでも軽く読めるようなものだと気づいて、おとといの夕方、本屋でエッセイを探してみた。

 

おもしろそうなエッセイ本をネットで調べていくつか目星をつけてから、駅前の書店をふらふらと覗いてみたものの、読みたいと思うものが見つからない。古本屋も探したけれどいいのがなかった。

 

こういうときは、代わりに無理に何か買うべきじゃないなと思って、結局何も買わずに帰ることにする。家にも10冊近く積読があるし、最近貸し出し利用が再開された奈良市の図書館で借りている本もある。もしかしたらそのなかに何か、人におもしろいと思ってもらえる文章を書くためのヒントがあるかもしれない。

 

帰宅して、家にあった鷲田清一さんの「濃霧の中の方向感覚」を手に取る。

鷲田清一さんの文章は90年代前半生まれの僕の世代は、大学入試の現代文の問題なんかにもよく登場していて馴染みがある。いまでも入試に出てるのかもしれない。

鷲田さんは哲学カフェが生まれた阪大の臨床哲学の教授というイメージが僕のなかでは強い。なんとなく「時々は読んでおいた方がいい」と思うような方だった。

 

 

honto.jp

 

 

僕はエッセイが書きたいと思いながら、エッセイとは何たるかがよくわかっていなかったのだけど、偶然この書物のなかに、エッセイについて書かれた文章があった。

 

 エッセイは、論理の道筋を丹念にたどるのではなく、たまたまという意味での偶然にも席を空けておきます。行き当たりばったりとか脱線、これがエッセイでは存外大きな意味をもっているのです。

ひとつの考えで全体を包み込むのではなく、たまたま思い浮かんだよしなしごとに、こころをたっぷりと遊ばせる必要があるのです。それらの間をゆれていいのです。というか、揺れているのがいいのです。

 そうすると読者が入ってゆけるすきまがいっぱいできる。そのすきまをぬって、読者はしゃちこばったじぶんの思いをほどいてゆくことができる。

(『濃霧の中の方向感覚』p322身辺雑記「エッセイを書く」より引用)

 

「揺れているのがいい」って、なんかいい言葉だなあ。

普段から頭のなかもそうだし、はてなブログに書く文章だって揺れまくってるもんなあ。なんだか自分を肯定してくれている気がする。笑

 

ぼくが初めて好きになったエッセイは川上弘美さんの本で、「なんとなくな日々」だったか他の本だったか忘れてしまったけれど、ふらっと海を見に行って海でビールを飲む話や、どういう繋がりかよくわからない小学生との会話が載っている話がおもしろかったのを覚えている。

 

人にはいろんな生き方があって、それぞれにいろんな日々があるんだなあと、なんとなく気持ちが楽になった。

 

宿直明けの今日、また図書館で本を借りてきた。ついでに気になっていたカフェに初めて入ってみる。

 

商店街にある、月舟町という名前の小さなカフェは、長いテーブルに8人座れば満席になるくらいなのだけど、本がたくさん置いてあって観葉植物のポトスなんかもあって、とても心地のいい場所だった。ポトスは最近僕も育て始めたのだ。

 

カフェの本棚で見つけたのは、暮らしの手帳の松浦弥太郎さんの「今日もていねいに」という本だった。日常生活の何気ないエピソードをもとに、日々を心地よく丁寧に生きるための松浦さん流の方法が綴られていて、なんだか心が洗われるような気分になった。すごく単純だけど、「帰ったら家掃除しよう」って思った。

 

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一人の時間や自分のペースを大事にする、疲れていたら休む、体が凝っていたら動かす。日々の暮らしに小さな課題を作ってチャレンジしてみる。そんな小さなことの積み重ねで、ずいぶん良い生活ができそうだなと思う。

 

自分は今はちょっと胃を休めないといけないな。鶏皮が好きだからってそればっかり食べてたらダメだわ。