書きながら考えたこと。

奈良で暮らす20代の男の、とりとめのない日々の記録です。

優しさの防波堤

第二波がどんな形でいつ到来するかはわからないけれど、予想してたより早く1日あたりの感染者数は減少し、1年とか2年の長期戦を覚悟していたはずが、1ヶ月半ほどの緊急事態宣言を終えて少しずつ世の中が元の生活に戻ろうとしているようにも感じる、今日この頃。

 

この一週間ほど、リアリティ番組に出演していたプロレスラーの急死がSNSで話題になり、今日は中国が国家安全条例の香港での導入を可決したニュースが流れた。

 

そんななか僕は最近あることがきっかけで、ハンドボール部に所属していた高校時代、左手を怪我してから右手だけでボールをキャッチする練習をしていたけれど指が短いためにどうしてもできなかったことを思い出したり、朝日新聞で記者をしている高校からの友人が書いた、滋賀県の高校の野球部のマネージャーをしている脳性まひの男の子やその周りの高校球児たちの話を読んでから、ちょっとしたことを考えたりしている。

 

今日はその、ちょっとしたことについて書きたいと思う。

 

 

 

www.asahi.com

 

友人が書いた記事がこれなのだけど、脳性まひの野球部マネージャーの山本くんが部員を元気づけ、一方で部員たちは彼を温かく受け入れ、移動の介助などもしていた。しかもその野球部が県大会で23年ぶりに4強に入ったという、ドキュメンタリー映画になってもおかしくないような素敵な話なのだけど、4強の結果とは関係なく、「温かな関わりのなかで練習できていたこの高校生たちが羨ましい」というのが、読んだあとの正直な感想だった。

 

僕の母校の高校は進学校であるがゆえにちょっとした競争社会でもあって、少なくとも僕の周りにはこういった助け合いはなかったように思う。そもそも脳性まひや、明らかな障害のある人は僕の知る限りいなかった。一方で障害のある人の支援を行っているいま僕が働く職場では、障害のある人に対してであろうと、働くスタッフに対してであろうと、困っている人や大変そうな人がいたら助け合うことは当たり前に行われている。

 

「障害のある人を支える」とか、「困っている人がいたら当たり前に助け合う」といった文化は、その集団で誰かがすでにやっていれば、あとから入ってきた他の人も、(場合によっては時間はかかるかもだけど)たいていは自然と真似していけるというか染まっていけるもので、一方で、「自分のことは自分でやる」自己責任的な考え方が主流であったり、陰口とかも含めて複数の人が他者に対してひどい扱いをしているような集団では、それが当たり前になってしまっていて他の人もその人に厳しい対応をしてしまうといったことも珍しくない。

 

新しく出会ったAさんにどのように関わるか、というのは「周りの人たちがAさんにどのように関わっているか」にとても影響されやすいと思う。良くも、悪くも。

 

Aさん(障害のある人)と仲良くしている人が複数いるのに、自分だけAさんにきつく当たるとか、他の人とは仲良くするけどAさんとだけは距離を置く。というのはなかなか難しい。

だからこの野球部の話でいえば、山本君に野球部への入部のことを相談されたときに背中を押した山本くんや、温かく迎えてくれた監督が、他の部員にも大きな影響を与え、その結果全体としてマネージャーの山本くんを当たり前に支え、一方で部員が山本くんにも支えられるという関係ができたんじゃないかと想像する。

 

いろんな理由で、そうすることが正しいと思って誰かを批判したり、厳しく当たったりする人はどこにでもいる。支えあいの文化が根付いている僕の職場にもいる。

それがその人の倫理観の結果であったり、その人のなかでの理想を求めた上での関わりであるのかもしれないし、批判した人は、実は誰よりもその相手のことを考えているのかもしれない。だからそれ自体は良い悪いで判断できるものではないと思う。

 

けれどその人に厳しく当たる人が割合として多くなれば、その人はたぶん窮屈な思いをする。

 

誰かに厳しい意見を言う人に対しては、なるべく同調を示さないで適当な相づちをうって早めに話題を変えたり、いい部分を伝えてみたり、厳しく言われている人と自分が仲良くしてる姿をあえて見せてみたりして「ちょっとこの人の前ではAさんのこときつく言いづらいな」みたいな雰囲気を作っていきたいと思っている。

 

流されないというよりは、流れの方向をちょっと変えるようなイメージでやれたらいいな。

適当なおおらかさがあればもっといい。批判されてる人に対してだけでなく、批判する側の人に対しても、自分自身に対しても。人間みんな欠点あるんやからそれでいいやんって。

 

 

 

 プロ野球、開幕に向けて紅白戦が始まったみたいですね。