書きながら考えたこと。

奈良で暮らす20代の男の、とりとめのない日々の記録です。

「歩ける」というアドバンテージ

 

 

恋愛成就の神様

 

プライバシーのことがあるから、福祉の現場の仕事のことをブログで発信することはほとんどやってこなかった。いろいろ気を使って書くのが大変で、書くことはほとんどないのだけど、仕事の経験や、それを通して感じたことについて残しておきたいと思うことは多々ある。

 

障害のある人と関わる仕事をしていると日々、考えさせられることに直面する。最近またそういうことがあったので、少しメモしておく。

 

 

 

Aさんはまだ若くて、先天的な身体障害で歩くことができず、トイレや食事なども介助が必要だ。知的なハンディキャップも一部にはあるけれど、世代が近いのもあり、彼と僕は友達感覚で話をすることが多い。

 

彼は長い間彼女をほしがっていて、だけどまだできたことがない。

そんな彼が、「今度恋愛成就の神社に行きたいけれど、どこがいいか」と聞いてきた。

 

わりと僕は彼にストレートにものを言うので、このとき。「恋愛のことで神社にお願いしにいったことないからわからんわー。」と正直に答えると、

「○○くんは歩けるもんなあ。」と返ってきた。

 

歩けないということが彼にとって、恋愛においてもとても大きなハンディキャップで、一方歩ける僕は、自由に歩けるから神様に頼まなくても恋愛がうまくいくんだろうと、そういう意味で彼は言ったのだ。

 

歩けても必ずしも恋愛がうまくいくわけはないし、自由に歩ける僕だって失恋の経験は何度もあるけど、彼にとって、「歩ける」、「歩けない」というのは恋愛がうまくいくことに関係する他の要因を、全部無視できるほどの大きな差だってことだ。

 

実際、異性と出会う数の多さとか、気になった人へのアプローチが自由にできるかとか、そういったことを考えるとやはり、外出にヘルパーを必要とするということは圧倒的に大きなハードルになってくる。

 

歩けなくてもパートナーがいる人がいるとか、結婚してる人がいるというのも一方で事実なのだけど、歩ける僕が、そう言い返すことはできない。。

 

歩けるとか、喋れるとか、こうして文字を書けるとか、僕が当たり前に思ってきたことが、当たり前でない人にとっては喉から手がでるほどの能力なんだなと、そういうことに、この仕事をしていると何度も気づかされる。

 

子どものときの僕にとって、クラスメイトに母さんがいるのが羨ましくて、だけどそのクラスメイトはお母さんがいるなんて当たり前だから、反抗期になると、「昨日イライラして母親を殴った」なんて話をしていた。その話を聞いたときの、悶々とした感覚を思い出す。意識するたびに羨ましかったし、そのことを考えるたびにコンプレックスを感じていた。

 

その逆なんだ。自分は今、羨望の対象なんだ。

 

本当に当たり前なんて何もなくて、今こうして自分がいられるありがたみを、贅沢さを、もっと常に、わかっていたい。

そして自分がどうあるべきか、歩けない彼の希望に、どう関わっていくべきかを考えないといけないな。

 

歩ける自分にできることなんて、限られているのだけど。