考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

一日、後半

同僚2人と葬式の日の夜に、死んだ友人(その友人も、去年まで同じ職場で働いていた)のことを話そうって言って集まった。

 

最初は、友人が好きだったレストランに行こうかとも言っていたのだけど、誰もおなかが好いてなったから、奈良公園のあたりを歩くことにした。

転害門で集合し、大仏池を通って二月堂へ行った。奈良の夜景を見ながら話した後、真っ暗な登山道を通って若草山にも登った。

 

若草山から見える奈良の夜景は、広い範囲がきらきらしていた。少し眩しいくらいで、きらきらと、ギラギラの中間くらいだったけれど、綺麗だった。

 

着いたころは、まだ月は出てなくて、でも東の空は少し明るくて、しばらくしてから、半月まで欠ける少し前の月が出てきた。9時くらいだったろうか。寝待月とは、よく言ったものだ。

 

友人と仲の良かった同僚から、死ぬ数週間前に2人で出かけて、足湯カフェに入ったり、ドライブしたり、楽しい時間をすごせていたことを知って、なんだかほっとした。

死ぬ前の日々も、辛い時間ばかりではなかったんだと。

 

「死んで、会いたい人に会いに行く」、ということを友人はnoteに書いていた。

会えるかどうかわからないけど、死んだら会えるって思うことは悪いことじゃないし、僕らが、その友人がそのうち、天国で会いたい人に会えて、楽しく過ごせてたらいいなって思うのも、いいんだろうと思う。

 

自分が思いたいように思う、自分の信念に合った情報だけを集めることを心理学では確証バイアスって言うけれど、誰かを傷つけたりしないんだったらそれでいいと思った。科学で証明されたことや、事実ばかりを大事にしなくてもいい。

いろんな宗教が伝える死後の世界のことって、(「あのお坊さんも言ってたからきっとそうだよね」とか)言ってしまえば集団での確証バイアスに過ぎないのかもしれないけれど、それこそがすごく大事なんだよな。

 

同時に、僕はやっぱり、死なれると寂しいから、生きててほしいと思ったし、今生きている人にはこれからも、自ら死ぬことはせず、できれば長く生きててほしい。

 

その人の生きる苦しみを取り除いてやることできないのに、死にたいと思う人に生きててほしいと思うことは、生きている自分のわがままでしかないのだと思うけれど、わがままでもいいんじゃないかとも思う。

 

思いたいように思うことも、わがままを貫くことも、どっちも悪いことじゃない。

 

 

でもできれば、死んでほしくない人には、「生きていたい」って思ってもらえるような何かを、さりげなくしていきたい。わがままだけじゃなくて、小さな努力を時々はしていきたい。

 

ただ生きているだけのことを、時々祝っていこう。

そして、おいしいものを一緒に食べたり、楽しい時間を一緒にすごすことを、これからも大事にしよう。