書きながら考えたこと。

奈良で暮らす20代の男の、とりとめのない日々の記録です。

シェアとケアと銭湯。

 

経済や社会にそんなに詳しいわけではないけれど、GDPとかで豊かさを評価するのはいい加減時代遅れだということくらいはさすがにわかるし、お金の動きが鈍くなったって豊かさを保てる社会にシフトしていったほうがいいってこともわかる。

 

これまでいろんな学者たちが言ってきたことを、コロナ禍でますます強く実感するようになった。

 

パートナーの影響で聞き始めたJwaveのpocastで久しぶりに資本主義の限界についての話を聞いて、日ごろの考え事を自分でも書こうと思った。

 

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引越したけど、家具とかは新しいものをなるべく買いたくなかったし、買わなくてもなんとかなると思っていた。コタツや冷蔵庫、洗濯ラックは譲ってもらったし、デスクやたんすはもう10年くらい使っているものを使い続けている。ばあちゃんの部屋からもらってきたもうひとつの古いたんすは、パートナーに手伝ってもらって黒いペンキを塗り、引き出しをいくつか出して収納棚にリメイクして使っている。

 

職場でバザーを一昨年までやっていて、若手の社員はいろんなおうちに行って、「バザーに出してほしい」ものを受け取る仕事をしていたから、世の中には、不要になった、まだまだ使えるものが山のようにあることを実感を持って知っていた。店に並んでいたときは高い価値があっただろうものが、少し時間がたって、バザー会場に雑多に積まれていると、随分価値が下がって見えた。

 

 

物は、本当に気に入って、ほしいもの以外は買わなくていい。

もらったり、レンタルしたり、シェアしたりでなんとでもなる。

無印良品の家具のサブスクも、今の時代を反映している。

 

物を買わないようになって、使わなくなって余ったお金があれば、誰かに、必要なものやほしがっているものをプレゼントしたり、足りていないところに寄付したほうがいいとほんとに思う。寄付をした方がいいなんて正論を何度も言うのは憚られるけれど、やっぱり言いたくなる。

 

 

僕は給与が高いほうでは決してないけれど、そんなにお金がなくても幸せになれる環境と人間関係と趣味と、マインドセットを持っている。

 

パートナーと山に登って、山の上で熱いコーヒーを飲んだり、ホットサンドメーカーで焼いた肉まんを一緒に食べることで、最高に幸せになれる。

 

 

経済格差より、幸福度格差の方が重要だと思っている。

お金がたとえ平均より少なくても幸せに生きられている人は、もっとお金がなくて、お金がないために苦しい思いをしている人や、お金が必要な人にシェアした方がいいと思う(お金があるけど幸せそうじゃない人に、生きやすくなれる考え方や、趣味を紹介するのもいいかもしれない)。贈与や寄付をすることで、する側の心も満たされる。福祉の仕事で、ケアされる側より、ケアする側の人間が自己肯定感を持てるように、寄付も、する側の心が満たされる。

 

贈与は、行き過ぎた資本主義や、競争社会に対するささやかな抵抗だと思っている。

ものを買う代わりに、足りていないところに流す。

競争社会で、がんばって働かないと生きていけない人を、そんなことしなくても大丈夫なようにしていく。異常に窮屈で、生きずらい社会を、必死に頑張らなくてもなんとかなる世の中に変えていく。もっと稼いで独占しようとせずに、余っているところから足りてないところに流せばいい。物もお金も、持ってあの世へは行けないし、足りてないところに流すことをしていれば、そういう循環を作っておけば、自分が足りていないときに助けてもらえると思う。

 

というか、自分が一番足りたなかった子どもの頃にすでに、社会や大人たちに助けてもらっているのだから、少し余裕が出た今、社会に返していくのは当たり前かもしれない。

 

 

 

シェアすることで、相手も、自分の心も、社会もケアする。

 

シェアとケア。

そんな2つのワードから連想するのは、銭湯だった。

 

大浴場を皆でシェアして、それぞれの体もケアする。

多すぎると窮屈だけど、広い空間にひとりだとなんだか寂しいから

やっぱり人がいたほうがよくて、その方が満たされる。

続いてほしい文化だと思う。

 

 

久しぶりに行った奈良の京終の朝日温泉、休日の昼間に地元のおっちゃんやおじいちゃんが結構来てたの、やっぱり良かったな。