昨日のブログでもシェアした慎さんのこのnote、ものすごい勢いで読まれているみたいだ。たぶんtwitterとかでめちゃくちゃ拡散されてんだろうな。
最近、コテンラジオ好きな友人に紹介してもらったこの番外編。
言語化したり頭で考えて発信するのが得意な人と、
写真とかでメッセージを伝えるのが得意な人、
もちろん、日常の対面での言語コミュニケーションが得意な人、
いろいろあるだろう。
本当は知性って言ってもいろいろあるはずなのに、社会的に評価される知性というものが、一部の知性だけに限定されすぎていないか、という話。大事な見方だなと思う一方で、そもそも、社会的に評価されるっていう言葉自体も、それが文章であれ写真であれ動画であれ音声であれ、インターネット上とか、あるいは書籍や他のメディアで、多くの人に注目されて賞賛されている、という意味に限定されているような気がする。
当たり前すぎるけれど、社会的に注目されていないけれどおもしろい人は僕の周りにたくさんいるし、職場や地域コミュニティでとても大事な役割を果たしていると感じる人はいる。障害のあるメンバー(僕の職場では利用者をメンバーと呼ぶ)に対しても、そう感じることはある。
そもそも、社会的な価値ってなんだろう。
多くの人の暮らしを楽にする、勇気づける、幸せな気分にすることは価値だけど、
人間が生きていたいと思えるかどうかって、実はもっと身近な関係性のなかで規定されるような気がする。
「誰かに頼りにされる」ということもすごく生きがいになるし、そういった意味で、障害のある子どもが、その親に大きな生きがいを与えているかもしれなくて、親にとってはとても価値が高いってこともあるかもしれない。(大変な思いをして親がその子を育てていることももちろん事実だろうけれど)
俯瞰して捉えて、人材とか、知性の高低を論じるのもおもしろいかもしれないけれど、本当に幸せなコミュニティには、もっと小さなことで、身近な人を当たり前に助けあうような文化があるんじゃないだろうか。
くだらないことを言って誰かを笑わせることも、めちゃくちゃ大事な知性だし、価値だと思うんです。
文字で表現して、見ず知らずの人に共有するブログのような媒体にはあまり馴染まない話なのかもしれないけど。
経産省の官僚も、仕事外では、くだらない冗談言い合って生きてるといいな。