書きながら考えたこと。

20代の男のとりとめのない日々の記録です。

スマホを契約しない生活を3年以上続けている。

3年前、携帯もスマホも契約していなかった時期に書いたブログが最近よく読まれているらしい。自粛期間中のスマホ疲れなのか、経済的に逼迫したために解約を考えている人が多いからか、他の理由からなのかはわからないけれど、最近スマホを契約しないで暮らすことを考えている人が増えているのかもしれない。

 

僕は今でもスマホを契約していない。3年前の3月に解約したHUAWEIスマホを、解約した状態で今も使い続けている。契約していた時期も合わせたら、かれこれ5年くらい同じスマホを使っている。

 

kikikiron.hatenablog.com

 

 

僕がいま使っているもの

3年前にこのブログを書いてしばらくしてから僕はバイトから正社員になり、電話番号を持つ必要が出てきたので、ガラケーを契約した。さらにその後、wifiのないアパートに引越したから、家でパソコンやスマホをネットにつなぐためにポケットwifiも契約した。

 

ガラケーとポケットwifiで月々の支払いは計6000円ほど。スマホを契約した方が安いのかもしれないけど、wifi込みでこの値段ならまあいいかなと思っている。

 

仕事のときは、ガラケーwifi、(契約していない)スマホを全部リュックに入れて持っていくけれど、それ以外の外出は必要なものだけ持っていくようにしている。

電話がかかってくることがたぶんないだろうと思うときはガラケーは家に放置している。

 

 

2台持ちの小さな楽しみとメリット

ガラケーでボタンを複数回押して文字を入力するとか、SMSでの文字制限のあるやりとりとかが頭を使って結構楽しいのだけど、より実用的なメリットとしては、両方持って出かけているときにスマホの電池が切れてもガラケーの電池が残っていたら、電話番号を知ってる人とは連絡がとれるというのは結構助かっている。(モバイルバッテリーを常に持っておけば2台持ちじゃなくても解決するんだけど笑)

「ごめんスマホの電池切れそうやから、待ち合わせの場所に着いたら○○○(自分の電話番号)に電話して!」って何度LINEで人に送ったわからない。2台持ちだってことを知らない人からしたら最初、「???」ってなるんやろうな。

 

 

オンラインにするために手間がかかることの良さ

ガラケーはいつでも繋がるように電源を入れているけれど、スマホは基本はドライブモードだし、wifiも数分間使わなければスリープモードになる設定にしている。だから、スマホでLINEなどをチェックしたり、Googleで調べ物をするためには、「wifiをONにする」+「スマホのドライブモードを解除する」という2つのことをしないといけない。

 

基本オフラインで、オンラインにするまでに手間がかかるというのは、不便は不便なのだけど、必要なときだけオンラインにするようになるから、裏を返せば「繋がってない」気楽さを長い時間味わえているわけで、多少不便でも自分にはこれくらいがちょうどいいなと感じている。

 

 

不便だけど快適なのか、便利な方が不快なのか。

「不便益」といって、不便でよかったこと、不便じゃないとだめなこと、などについて研究している教授がいる。(こないだテレビでも出ていたので知っている人も多いかもしれない。)

ものさしの素数のメモリにしか数字が書かれていないために、計りたい長さが素数でなければ引き算をする必要が出てくる「素数ものさし」は有名だけど、「右折しかできない京都ツアー」なんてものもあるらしい。

 

「不便だからいい」ってのは、キャンプなんかにも当てはまることだと思うけれど、その分頭を使わないといけなくなって刺激的な暮らしができる。

 

必要なかったらスマホは持たずにガラケーだけ持ってでかけたり、サイクリング中に写真だけ撮りたいからwifiは持たずにスマホだけ持っていったり。

そのときそのときで、できるだけ最小限の持ち物で、最低限の便利さですごせるのは、結構快適で(というかもう慣れてしまってなんとも思わないのだけど)、これからも続けようと思っている。

 

 

最近読んでいるもの、聴いているもの、指しているもの。

最近はまっているものを書き残してみる。

作品に関しては全部内容に踏み込んでます。

 

「なんとなくな日々」

川上弘美さんのエッセー。高校の教科書に載っていて好きになって、大学時代にも読んだことがあったのだけれど、最近、家の近くの「本と珈琲の店」で見つけて再読していたら、ゆっくり読みたくなって店を出るときに店長さんに貸してもらった。何度読んでも「いいなあ」と思えるエッセーで、川上さんは、自分のだめさ加減とか、人との何気ないやり取りとか、家で一人でいる時間に見聞きした小さなことから感じたことなどを表現するのが本当に上手だなと、改めて感動した。

前にも読んで好きだったのだけど「行きつけの店、というのを持たない質だった」から始まる文章が今回なんだかすごく響いた。行きつけの店、自分もほしいなあ。店長に顔を覚えてほしいなあ。兄は中学生の頃から塾帰りに駅前のうどん屋さんにしょっちゅう通ってて「付け払い」とかしていたのだけど、弟の自分はそういうのが全然なくて、今でもできない。通ってるのは駅前の松屋ばっかりだ。でも潰れてほしくないし、これからは個人経営の店にももっと行こう。

別の文章では「だんご三兄弟」が登場していて懐かしかった。もう遠い昔のような、意外と最近のような。

 

「場所はいつも旅先だった」

松浦弥太郎さんの自伝的エッセー集。映画にもなったらしい。

若いころにアメリカでジーンズを安く買って日本で売る小商い的なことをして稼いでいたり、インターネットも普及していない時代にアメリカと日本を行ったりきたりして暮らしていた話がなんというか刺激的でおもしろいのだけど、一番すごいなと思ったのは、お母さんについての話。両親共働きで、小さいころから精神的に自立していたという弥太郎さんは、若い頃ニューヨークで冬をひとりで過ごしていたとき風邪をひいてしまった。そのタイミングで偶然ホテルに電話をかけてきた母親にそのことを話すと、一週間後に「友人に会いに来たついで」と言って母が日本からはるばる食料を持って会いにきたというのだ。なんだか読んでいてすごく心が温まる話だった。それまで海外旅行をしたこともなかったというお母さん、やることがかっこよすぎる。

 

 

夏になって紫外線が強くなってきたからか、最近目が疲れている。そんなときは部屋の照明もしんどく感じるから、夜に本を読みたいときには、暖色系の照明のキッチンに座って読んでいる。キッチンの床にクッションを持ってきて地べたに座って、椅子に飲み物を置いたりして読むのが心地いい。

 

「チャポンと行こう!」

 北欧暮らしの道具店が月に2回配信しているインタネットラジオ。リスナー(ちゃぽらー)からのお便りはほとんど女性なので男性で聴いてる人って少ないのかなとも思うけれど、2週間ほど前、堺から羽曳野まで原付を押して運ばないといけなかったときにずっと聴いていてはまってから今でもよく聴いている。昨日聞いた、「大人になってから友達作るの難しい」話、良かったなあ。

男女、で区別するのはよくないかもしれないけど、女性でも友達作るんの難しかったら、比較的社交的でない(とされている)男はもっと難しいよなと思う。奈良で暮らしていると、松屋でご飯食べてるときとか、電車とか、踏み切り待ちのときとか、生活圏内に世代の近い人をたくさん見かけて、この人たちと知り合いだったらおもしろいだろうなと想像するのだけど、実際は話すきっかけもない。

どこかにいけば気軽に知り合いができる場所あるのかなあ。社会人サークルとか、趣味の集まりとかもいいんだけど、もっと気軽に適当になんとなくすごしてなんとなく話しかけあえるような場所があればいいのになあと思う。

この会の放送の中で店長の佐藤さんとよしべさんが、「自分が友達と思う人ってどんな人?」って話をしていたけれど、ぼくのなかでは気軽に「ボードゲームしよう」って誘える人は友達かもしれない。登山でもスポーツでもいいんだけどね。その人とまだやったことのないことに気軽に誘える関係性。身近に増やしていきたいなあ。

 

 

将棋

大学の頃の自分は、家の近くに自分と同じように下宿していて気軽に遊びに行ける友人が何人かいたし、学部棟に行けば話し相手になってくれる人がいて、人に恵まれていたのかもしれない。その反動か、今は職場以外で近所に気軽に誘える友人がいないことを、時々寂しく思う。

大学の頃、高校からの友人が、大通りを挟んだ家の近所に住んでいて、時々遊びにいった。そのうち友人の彼女とも仲良くなって、3人でたこパ(お好み焼きと焼きそばも一緒に作った)とかトランプとかいろんなことをして遊んでていたのだけど、友人に彼女ができる前は、その友人の家でよく将棋を指していた。友人は強くてなかなか勝てなかった。その友人も、今では就職して青森で暮らしているから、気軽に遊びには行けない。

先日、僕の彼女が遊びにきたときになんとなく将棋をしたくなって買って指して、こうして将棋ができる相手ってありがたいなと思った。ボードゲームも好きだけど、将棋は1対1で静かに相手に向き合っている。もちろん頭の中は忙しいし白熱しているんだけど、他のことは忘れてじっくりコミュニケーションをとれる感じがいい。

 

コロナが落ち着いて、でもたくさんの人とは集まれないし、気持ち的にも、しばらく会ってなかった人と同時に集まってしまうと心が追いつかなくてしんどい気がする。でも、人と会えるようになったのに一人でいるのは寂しい。できれば1対1で、ゆっくり誰かと過ごしたい。そんなときに、将棋は結構いいかもしれないと思う。昔、子どもの頃の自分に教えてくれて、仕事から帰ったあとでよく相手してくれていた父親には、感謝しないといけない。

静かに人と過ごせる場所

 

 

昨日からの大降りの雨がやんで、おとといまでの日中の暑さが嘘のように涼しくなった5月の終り、宿直明けの今日。

 

自粛ムードが消えつつあるなかで、なんだか少し寂しさを抱えていた。

世間が元に戻っていって、ゆったりした日々がもうすぐなくなってしまうこともそうだし、ある程度自由に人に会ってもよくなったのに、話したいときに軽く誘ってすぐに会える友人が近くにいないことにも、なんとなく物寂しさを覚えていた。

 

こないだ彼女が遊びに来たときに将棋を買って指していた。

子どものころに父親に教えてもらって夢中になって、仕事から帰ってきた父によく付き合ってもらった将棋。しばらくして父の仕事が忙しくなって、相手をしてもらえなくなったのだった。もうあと数年で30歳になるというのに、いまの寂しさはそのときの感覚と似ているのかもしれない。指したいときに将棋に付き合ってもらえる人が、一人暮らしの僕の家の近所にはいない。奈良に越してきて3年になろうとしているというのに、職場以外で仲の良い友人を作れていない。案外みんなそんなものなのかもしれないけど。

 

 

将棋をさせなくてもいいから、今日は誰か人と話したい気分だった。最近初めてひとりで入った駅前の焼肉屋さんにいけば、カウンター席で店長とちょっと喋れるかもしれない。少しこわもての店長だけど、常連さんとの会話は気さくだったから、1000円でホルモン盛り合わせとドリンク2杯がついてくる「せんべろセット」を頼んでまたひとりでべろんべろんになったら、今回は僕にも何か話しかけてくれるかもしれない。けれど20代の男が1週間に2回も(しかも日曜の昼から)一人でホルモンを食べに行くのは余計に寂しい感じがするから、ホルモンは来週にしよう。

 

こういうときは、個人経営のカフェだ。

川の近くの静かな商店街にあるカフェは、店名の札の横に「本と珈琲」の文字が書かれている。

 

ここは金・土・日曜しか開いていないのだけど、珈琲と、2~3センチ四方の小さなチーズケーキと生チョコレートが可愛らしい木のお盆に載ったセットが、ワンコインで頼める。そのうえいくつかの本棚にあるたくさんの本が読み放題という、なんとも幸せな珈琲屋さんだ。

 

以前行ったときはJpopのオルゴールが流れていたのだけれど、今日は洋楽のオルゴールだった。店に入ったときにかかっていたのが、Jack JohnsonのGood People。ここに来る直前に、家でウクレレを弾こうと思っていて調べていた曲だった。なんて偶然。

 

一応図書館で借りた小説とエッセー集をかばんに入れて持ってきていたのだけれど、せっかくなので店の本棚を見る。「365日のスプーン」という、1月1日から12月31日までの1日1日に短い日記のような短文が書かれた本が気になって手に取った。

5月31日。今日の日付をめくると、「寂しい気持ちを恥じなくていい。「愛されたい」のはみんな一緒」というようなことが書かれていた。いまの自分にぴったりの言葉でびっくりした。

 

そうか、自分は愛されたかったのか。誰かと一緒にいたいって、愛情をもらいたいってことなのかな。そういえば、「愛するとはその人のために時間をかけること」って誰かが言ってたなあ。

 

店には、コロナでしばらく子どもと会えていない男性と、明日から学校が再開する学校の先生がいて、帰り際に店長さんと話をしてから出ていった。ここに来れば店長さんがいて、同じ空間で静かに本が読めて、帰り際に話ができる。この場所はきっと、2人にとっても、この場所は大事なんだろう。

 

甘いものと珈琲をいただきながらしばらく本を読んでいたら、心が満たされてきた。

 

帰り際に少し話すと店長さんは「好きな本があったら借りていっていい」と言ってくれた。最近はまっている松浦弥太郎さんの「場所はいつも旅先だった」と、久しぶりに読んだ川上弘美さんの「なんとなくな日々」を借りて帰る。

 

エッセーを読むことも、本の貸し借りも、孤独を心地よく和らげてくれる。

 

図書館が閉まっていた期間に始めた職場の貸し本棚、これからも少しずつ充実させていこう。

読書感想文「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(ちょっとネタバレ)

www.shinchosha.co.jp

 

2019年の本屋大賞になった本で、テレビでも紹介されているくらいだからずいぶん多くの人が知っているだろうし、それこそこうやってブログに感想を書いた人もたくさんいるはず。

 

けれど(これまですでに多くの日本人に読まれていたとしても)この本はもっとたくさんの人に読まれた方がいいと思って、宿直の日の朝からこうしてカタカタしている。

 

もうすでにいろんな人が紹介しているので改めて書くまでもないことだと思うのだけど、この本はイギリス在住の著者、ブレディみかこさんの中学生の息子が”元底辺中学校”や地域で体験する貧困や人種の違いなどをめぐる様々なトラブル、あるいは息子と一緒にしたボランティア活動の経験、元底辺中学校の先生らと著者との会話などから構成されているノンフィクションだ。

 

SNS上での批判とか、誹謗中傷の話が話題になるいま、この本の著者の中学生の息子の体験から、大人も子どもも関係なく一緒に学ぶことには、大きな意味がありそうだなと感じた。一生勉強し続けないといけないなと、改めて思わされる本でもあった。

 

「あの先生はちょっと違ってた。どの差別がいけない、っていう前に、人を傷つけることはどんなことでもよくないっていつも言っていた。だから2人を平等に叱ったんだと思う。」

 (70ページより引用)

 

 

本文の感想を2つだけ。

 

1,ひどい状況でも前向きに解決していこうと思える。

いま大人になっている日本人には、「子どものころ学校でいじめがあった」という人は結構多いと思うのだけど、おそらく「学校で人種差別や貧困などのいろんな問題が起きているなかで自分たちで解決した経験がある」って人は少ないんじゃないかと思う。僕も中学校でいじめは見てきたし経験もしたけれど、それを主体的に解決した経験はない。

 

イギリスの元底辺中学校で、様々なトラブルが起きながらも前向きに生きている著者の息子や周りの人たち、あるいはボランティアで支えあう人たちを見ていると、解決策としての学びになるだけでなく、勇気をもらえるというか、日本がこれからもっとひどい状況になっても草の根で自分たちで力を合わせて、なんとかしていくことはできるんじゃないか、という気分にさせてくれる。

学習性無力感を、中学生の経験を追体験することで自信に変えてくれるような本だった。(そしてイギリスの現状が知れるのでワクワクする。)

 

2,自分より強い立場の人たちにもエンパシーを持つ

5章のなかで紹介されているエンパシーという言葉は、「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」とケンブリッジ英英辞典で定義されているらしい。(p75)

この言葉を、「同情や哀れみ、あるいは似た考えの人への同意など」を意味するシンパシーと比較して、「自分とは違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ」とブレディみかこさんは言っている。自分より恵まれた立場にいる人や、違う考えの人の気持ちを想像するのはエネルギーがいるけれど、それができる能力をエンパシーというらしい。

 

これってしんどいけど大事なことだよなと思う。どんな立場の人でも苦しみは何かしらあるだろうし、「自分のことをわかってほしい」だけでは何事も解決しないだろうから。当たり前といえば当たり前だけど、改めて意識したいことだった。

 

 

 

 

僕はこの本を本屋でみかけて気になっていたけれど、なぜか多くの人に読まれている本は敬遠してしまうところがあって読んでいなかった。けれど職場のパートさんがこの本を読んでいると聞いて、読み終わってから貸してもらって読んでいる。

まだ実は半分くらいしか読んでないのだけど、ほんとに読んでよかったと思う本だった。読み終わったら、パートさんと感想をシェアし合おう。

 

皆さんも、ぜひ。

これからたぶん経済的に苦しくなっていく日本社会で生き抜くための、精神的なワクチンになりそうな本です。笑

エアプランツは期待を裏切らない。

lovegreen.net

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エアプランツをご存知だろうか。

葉から空気中の水分を吸収するため、水や土がない場所でも成長できる、奇跡のような植物だ。

 

10日ほど前、入院中の兄の家を掃除しに行ったとき、コーナンによってエアプランツを買ってきた。何か植物があったら癒しになるなと思って園芸コーナーをぶらぶらしていて、水やりの必要のないエアプランツはたまにしかこれない家に飾るのにちょうどいいと思って買ったのだった。

 

買った当時は葉も短く、小さかったティランジア・ブッツィー。10日前にキッチンにぶらさげておいたのが、今日訪れたら葉っぱが倍ぐらいに伸びていた!

買った当時の写真を撮り忘れたので比較できないのが残念。笑

 

 

 

たまにしか行かない場所とか、毎日水遣りできない職場なんかにおすすめかも。

今日また我が自宅用に買ってきた。

 

毎年ベランダで育てているゴーヤも2,3日前に芽が出てきて、最近植物にとても癒されている。

人間関係とか、社会で起きるいろんな問題なんかを考えることに疲れたときは植物を眺めながらぼけーっとするのがいい。

 

植物は、偉大だ。

 

優しさの防波堤

第二波がどんな形でいつ到来するかはわからないけれど、予想してたより早く1日あたりの感染者数は減少し、1年とか2年の長期戦を覚悟していたはずが、1ヶ月半ほどの緊急事態宣言を終えて少しずつ世の中が元の生活に戻ろうとしているようにも感じる、今日この頃。

 

この一週間ほど、リアリティ番組に出演していたプロレスラーの急死がSNSで話題になり、今日は中国が国家安全条例の香港での導入を可決したニュースが流れた。

 

そんななか僕は最近あることがきっかけで、ハンドボール部に所属していた高校時代、左手を怪我してから右手だけでボールをキャッチする練習をしていたけれど指が短いためにどうしてもできなかったことを思い出したり、朝日新聞で記者をしている高校からの友人が書いた、滋賀県の高校の野球部のマネージャーをしている脳性まひの男の子やその周りの高校球児たちの話を読んでから、ちょっとしたことを考えたりしている。

 

今日はその、ちょっとしたことについて書きたいと思う。

 

 

 

www.asahi.com

 

友人が書いた記事がこれなのだけど、脳性まひの野球部マネージャーの山本くんが部員を元気づけ、一方で部員たちは彼を温かく受け入れ、移動の介助などもしていた。しかもその野球部が県大会で23年ぶりに4強に入ったという、ドキュメンタリー映画になってもおかしくないような素敵な話なのだけど、4強の結果とは関係なく、「温かな関わりのなかで練習できていたこの高校生たちが羨ましい」というのが、読んだあとの正直な感想だった。

 

僕の母校の高校は進学校であるがゆえにちょっとした競争社会でもあって、少なくとも僕の周りにはこういった助け合いはなかったように思う。そもそも脳性まひや、明らかな障害のある人は僕の知る限りいなかった。一方で障害のある人の支援を行っているいま僕が働く職場では、障害のある人に対してであろうと、働くスタッフに対してであろうと、困っている人や大変そうな人がいたら助け合うことは当たり前に行われている。

 

「障害のある人を支える」とか、「困っている人がいたら当たり前に助け合う」といった文化は、その集団で誰かがすでにやっていれば、あとから入ってきた他の人も、(場合によっては時間はかかるかもだけど)たいていは自然と真似していけるというか染まっていけるもので、一方で、「自分のことは自分でやる」自己責任的な考え方が主流であったり、陰口とかも含めて複数の人が他者に対してひどい扱いをしているような集団では、それが当たり前になってしまっていて他の人もその人に厳しい対応をしてしまうといったことも珍しくない。

 

新しく出会ったAさんにどのように関わるか、というのは「周りの人たちがAさんにどのように関わっているか」にとても影響されやすいと思う。良くも、悪くも。

 

Aさん(障害のある人)と仲良くしている人が複数いるのに、自分だけAさんにきつく当たるとか、他の人とは仲良くするけどAさんとだけは距離を置く。というのはなかなか難しい。

だからこの野球部の話でいえば、山本君に野球部への入部のことを相談されたときに背中を押した山本くんや、温かく迎えてくれた監督が、他の部員にも大きな影響を与え、その結果全体としてマネージャーの山本くんを当たり前に支え、一方で部員が山本くんにも支えられるという関係ができたんじゃないかと想像する。

 

いろんな理由で、そうすることが正しいと思って誰かを批判したり、厳しく当たったりする人はどこにでもいる。支えあいの文化が根付いている僕の職場にもいる。

それがその人の倫理観の結果であったり、その人のなかでの理想を求めた上での関わりであるのかもしれないし、批判した人は、実は誰よりもその相手のことを考えているのかもしれない。だからそれ自体は良い悪いで判断できるものではないと思う。

 

けれどその人に厳しく当たる人が割合として多くなれば、その人はたぶん窮屈な思いをする。

 

誰かに厳しい意見を言う人に対しては、なるべく同調を示さないで適当な相づちをうって早めに話題を変えたり、いい部分を伝えてみたり、厳しく言われている人と自分が仲良くしてる姿をあえて見せてみたりして「ちょっとこの人の前ではAさんのこときつく言いづらいな」みたいな雰囲気を作っていきたいと思っている。

 

流されないというよりは、流れの方向をちょっと変えるようなイメージでやれたらいいな。

適当なおおらかさがあればもっといい。批判されてる人に対してだけでなく、批判する側の人に対しても、自分自身に対しても。人間みんな欠点あるんやからそれでいいやんって。

 

 

 

 プロ野球、開幕に向けて紅白戦が始まったみたいですね。

 

エッセイを書きたくなってから出会った2冊の本のこと。

 

小説を書いている友人に触発されて最近、文章を書くことをもっと積極的にやっていきたい思いに駆られている。

 

とはいっても自分が書きたいのは小説ではなくて、エッセイのような、なんとなくページを開いて、どこからでも軽く読めるようなものだと気づいて、おとといの夕方、本屋でエッセイを探してみた。

 

おもしろそうなエッセイ本をネットで調べていくつか目星をつけてから、駅前の書店をふらふらと覗いてみたものの、読みたいと思うものが見つからない。古本屋も探したけれどいいのがなかった。

 

こういうときは、代わりに無理に何か買うべきじゃないなと思って、結局何も買わずに帰ることにする。家にも10冊近く積読があるし、最近貸し出し利用が再開された奈良市の図書館で借りている本もある。もしかしたらそのなかに何か、人におもしろいと思ってもらえる文章を書くためのヒントがあるかもしれない。

 

帰宅して、家にあった鷲田清一さんの「濃霧の中の方向感覚」を手に取る。

鷲田清一さんの文章は90年代前半生まれの僕の世代は、大学入試の現代文の問題なんかにもよく登場していて馴染みがある。いまでも入試に出てるのかもしれない。

鷲田さんは哲学カフェが生まれた阪大の臨床哲学の教授というイメージが僕のなかでは強い。なんとなく「時々は読んでおいた方がいい」と思うような方だった。

 

 

honto.jp

 

 

僕はエッセイが書きたいと思いながら、エッセイとは何たるかがよくわかっていなかったのだけど、偶然この書物のなかに、エッセイについて書かれた文章があった。

 

 エッセイは、論理の道筋を丹念にたどるのではなく、たまたまという意味での偶然にも席を空けておきます。行き当たりばったりとか脱線、これがエッセイでは存外大きな意味をもっているのです。

ひとつの考えで全体を包み込むのではなく、たまたま思い浮かんだよしなしごとに、こころをたっぷりと遊ばせる必要があるのです。それらの間をゆれていいのです。というか、揺れているのがいいのです。

 そうすると読者が入ってゆけるすきまがいっぱいできる。そのすきまをぬって、読者はしゃちこばったじぶんの思いをほどいてゆくことができる。

(『濃霧の中の方向感覚』p322身辺雑記「エッセイを書く」より引用)

 

「揺れているのがいい」って、なんかいい言葉だなあ。

普段から頭のなかもそうだし、はてなブログに書く文章だって揺れまくってるもんなあ。なんだか自分を肯定してくれている気がする。笑

 

ぼくが初めて好きになったエッセイは川上弘美さんの本で、「なんとなくな日々」だったか他の本だったか忘れてしまったけれど、ふらっと海を見に行って海でビールを飲む話や、どういう繋がりかよくわからない小学生との会話が載っている話がおもしろかったのを覚えている。

 

人にはいろんな生き方があって、それぞれにいろんな日々があるんだなあと、なんとなく気持ちが楽になった。

 

宿直明けの今日、また図書館で本を借りてきた。ついでに気になっていたカフェに初めて入ってみる。

 

商店街にある、月舟町という名前の小さなカフェは、長いテーブルに8人座れば満席になるくらいなのだけど、本がたくさん置いてあって観葉植物のポトスなんかもあって、とても心地のいい場所だった。ポトスは最近僕も育て始めたのだ。

 

カフェの本棚で見つけたのは、暮らしの手帳の松浦弥太郎さんの「今日もていねいに」という本だった。日常生活の何気ないエピソードをもとに、日々を心地よく丁寧に生きるための松浦さん流の方法が綴られていて、なんだか心が洗われるような気分になった。すごく単純だけど、「帰ったら家掃除しよう」って思った。

 

www.php.co.jp

 

一人の時間や自分のペースを大事にする、疲れていたら休む、体が凝っていたら動かす。日々の暮らしに小さな課題を作ってチャレンジしてみる。そんな小さなことの積み重ねで、ずいぶん良い生活ができそうだなと思う。

 

自分は今はちょっと胃を休めないといけないな。鶏皮が好きだからってそればっかり食べてたらダメだわ。