書きながら考えたこと。

奈良で暮らす20代の男の、とりとめのない日々の記録です。

心が慌しい日々のなかで見つけたやすらぎ

 

季節はずれなほど涼しい日々が続いたあとで急な猛暑になった。

 

皆さん元気でしょうか。暑さ以前に紫外線が苦手な僕は、涼しくなるまでなるべく室内で過ごそうと思っている。とはいっても、夏らしい楽しみとか、休日の外出の誘惑には抗えないもので、おとといは友人と奈良の天川村にあるみたらい渓谷へ行き、あさっては職場の人たちと滋賀に行く予定をしている。

 

おとといの気の置けない友人とのドライブや、川や温泉街で過ごした時間は至福で、自分と同じくゆったりしたものが好きな人たちだから、ドライブ中に流してくれた音楽も運転しながら寝てしまいそうになるくらいまったりしたもので、でも歌詞のないその曲は、木々に囲まれた山道を車で抜けていくときの風景に合っていてとても心地よかった。

 

 

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(最後のは、岩場に寝そべりながら撮った写真)

 

 

 

ここ最近、心が落ち着かない日々を送っていた。

熱さ(もはやこの漢字の方がしっくりくる)もきっと、落ち着かなさに影響してるんだろうけれど、彼女が昔大事な存在だった人について書いたnoteを読んで、自分も過去に大事だった人のことを思い出したり、同じタイミングで、職場の利用者さんから重めの相談を受けたりしていた。

 

過去のその人にも似た種類の相談を受けていて、利用者さんから相談を受けたときに、当時話を聞いていた苦しさを今また味わっているような感覚になった。

 

過去のその人との記憶は、自分にいろんなコンプレックスを思い出させ、最近、大学の頃と同じようにまた、時々そのコンプレックスと向きあっている。

 

最近読んでいるNicholas Sparks さんのSafe Havenのひとつのテーマにもなっているのだけれど、当時も今も自分がしている作業というのは結局のところ、喪失からの回復なのかもしれない。

 

自分のなかの欠けた部分を埋めることを、一人の他者に求めてしまうのは重すぎてたいていうまくいかない。いろんな人に支えてもらって、誰かを支えることで自分もまた支えられたりしながら、できるだけ好きなことを考えながら、しんどいときこそなるべく肩の力を抜いて生きていきたい。

 

ああ、なんか書こうとしていたことと違う方向に思考が進んでいってしまった。

 

 

書きたいのは、そんな日々のなかでやすらぎを感じた時間のこと。

 

心が慌しいときに、僕はなぜか部屋を片付けて、掃除をしていた。皿洗いとか、マスクを洗うとか、そういった繰り返し使うものを洗って綺麗にしていく作業が僕は好きなのだけど、掃除もまた同じように、心を整えてくれる。

 

環境を整えることで、気持ちも少しすっきりする。

仕事が忙しかったりして頭のなかがパンパンになっているときに山や川に行きたくなるのも、シンプルな環境に身を起きたいという意味で、もしかしたら掃除と共通するものがあるのかもしれない。

 

気持ちがしんどいときこそ、無理のない範囲で少し体を動かして、部屋を整えてみよう。

 

みたらい渓谷に一緒にいったマレーシア出身の友人とも、日本人は掃除を大事にしているといった話をしていた。トイレの神様という曲を彼に紹介して一緒に聞いてみたら、それまできちんと聞いてこなかった、作者がおばあちゃんとの時間を書いた歌詞が素敵で、それから繰り返し聞いた。

 

家事とか、掃除とか、書くこととか、日々の何気ない行為を大事にしていきたいなと、また思った。家事援助もある福祉ホームの仕事は、案外自分に向いてるのかもしれないな。

洗濯物を干したり畳んだりする作業も、結構気持ちいいんだよな。 

 

久しぶりに洋書を読んでいる。

 

久しぶりに洋書を読んでいる。

英語の勉強のために洋書を読もうとしてもたいてい続かなくて途中で終ってしまうのだけど、今回はNETFLIXで見た映画の原作が読みたくなってメルカリで調べたらたまたまあったので購入。内発的動機付けってやつか。Intrinsic motivationだな。

書いてて思ったけど洋書との出会い方も買い方も現代的。2020年って感じ。

 

読んでいる小説は、2010年に出版されたアメリカの小説家Nicholas SparksのSafe Haven。映画のストーリーもおもしろかったし風景が綺麗過ぎて、原作を読んで長くその世界に浸りたかったのだ。ちなみにNicholas Sparksさんは「きみに読む物語」の原作の作者でもある。

 

以前、英語の勉強の記録をブログに残すとかいいながら全然できてなかったので、Safe Havenを読んでいて、なんとなくいいなあと思った箇所を引用してみる。まだ2章目。主人公の27歳の女性、Katieが、田舎の港町で昔狩猟小屋だった部屋を安値で借り、自分でリノベーションしているところ。

 

With most of the work now behind her, she liked to sit on the front porch in the afternoons and read books she'd checked out from the library. Aside from coffee, reading was her only indulgence.

 

図書館から本を借りるってcheck out って言うんだなあとか、afternnoonsで複数の日の午後を言い表せるのかとか、indulgenceってなじみのない言葉だったなあとか、自然に囲まれた場所でコーヒーと本があれば、それだけで結構幸せだよなあとか、そんなことを思うのです。

 

また、好きな箇所が出てきたら引用しよう。

 

 

 

信念ってなんだろう。ー美容師さんとの雑談から

 

僕がよく行く美容室で、指名しなくてもなぜかほとんど毎回カットしてくれる美容師さんがいる。歳は僕より少し下で、見た目は大人っぽく落ち着いていておしゃれなんだけど、話を聞いていると実はめっちゃ遊び好きでクリエイティブな人だ。

 

 

以前緊急事態宣言が解かれて少したったくらいのタイミングでカットしてもらっていたときに彼は、彼の友人が作った曲の歌詞を作っていた。テーマは「当たり前って思っちゃってたこと」だった。

最近作詞している曲のテーマは、「 belief(信念)」らしい。

 

髪を切られながら、「信念ってありますか?」って聞かれて、めっちゃ考えこんでしまった。美容室なのになんだか哲学カフェみたいだ。

 

信念。言葉の意味は、「正しいと信じる自分の考え」らしい。

 

 

働くうえでの信念について聞かれて考えていて、「いやー、絶対あるはずなんだけどなあ。」と思いながらも、そのときは全然出てこなかった。

 

仕事でどう行動するか迷ったときに軸になる考え方、絶対あるはずなんだけど。

 

美容室を出たあと、ダイソーで家庭菜園用の枝豆やきゅうりの種を買ってからもう一度考えていた。

僕は「絶対的に正しいことなんてない」って思うタイプなんだけど、それでも正しいと思って大事にしていることってあるはずだよなと。

 

リュックに入れた枝豆やきゅうりの種とともに帰宅する途中で、ようやくいくつか思いついたから、せっかくなのでメモしておこう。

 

2020年7月28日、27歳と8ヶ月の時点での自分の信念。

今後変わる可能性あり。

 

まずは、「どんな人も不完全で、苦手なことはあるし、人はミスをする生き物だ」ってこと。

だから他人や自分のだめなところを責めない、ミスしてもできる限り批判せず当たり前に受け入れる。人には駄目なところがあって、誰もがミスすることを前提に、それでも場がよりうまく回っていくように考えていく。

 

もちろんよりよくあろうとすることも大事けれど、それが行き過ぎると自分の価値基準に照らしたときに駄目な人や、自分のなかの駄目な部分を責めてしまって生きずらくなってしまう。そもそも「良い」ってなんだって話で。あらゆる善が見方を変えれば悪なんだから。ああ、これも信念か。

 

何を大事にして生きているか、働いているかなんて十人十色なんだから、自分の価値基準で良し悪しを判断しても独りよがりになってしまうだけ。

 

まあ、一方で、職場としての大きな価値観を共有しておくことは大事だろうけど。

 

 

 

ふたつめは、「身近な人を嫌いになると、自分も周りもしんどい。」

職場とか家族とか、身近に嫌いな人がいると自分も、見ている周りの人もしんどくなってしまう。

嫌うか好むかって考え方でコントロールできることもあるから、合わないなってタイプの人こそいい部分を見るようにして、なるべく好きになるように(嫌いにならないように)する。もちろんそういう人を好きになろうとするのにはエネルギーを使うし大変だから、あわない人と無理に近づこうとはしないで、ほどよい距離感を保っておく。けれど違うタイプの人から学ぶことも多いので、そういう人のことも大事にする。

ああ、でも合わない人ばかりの集団だったらめちゃくちゃしんどいから、自分に合った環境ってやっぱり大事だな。

 

 

「自分が生きたいように生きた方が生活は楽しい。」

 

当たり前すぎることなのだけど、不満を抱えたままでいるより、やりたいことをやって動きたいように動くほうがおもしろい。動く上でいろいろ足かせになることはあるけれど、一度動いてしまえばそんな大したハードルじゃなかったなってことも多い。

 

「生きたいように生きる」ってのは、自由勝手に思うまま行動するってのとは違って、今は誰かのために我慢したいって思ったらそうする。

むしろそう思えるように、人の幸せのために何かしようと思えるように、自分のしたいことは普段からして自分を満足させておく。

 

 

こんなところかな。

考え出したらもっともっと出てきそうだけど、とりあえずこの辺で。

 

 

皆さんにとっての「信念」ってなんですか?

 

 

昨日母方のじいちゃんの家に行って、じいちゃんやいとこたちと話していた。

帰る少し前にじいちゃんから聞いた言葉が胸に残っていて、やけに動揺している。

 

 

母方のじいちゃんに「若いころは仕事ばっかしてて家のことは全部家内に任せていたから、千春のことはあまり覚えてない」と言われた。

千春という名の僕の母は、僕を産んだ半年後に自死していて、その母親である祖母も、数年前に病気で死んだ。

 

今年90歳になったじいちゃんにその言葉を聴いた瞬間、母親のことを、生きているうちにおばあちゃんから聞いておけば良かったという後悔が湧いた。

 

母方の祖母は、言葉が少なく、笑顔以外の表情を見たことがないような穏やかな人だった。僕が子どものころ、時々、母が昔住んでいたその家に遊びにいって、おばあちゃんにおいしいおでんを作ってもらったりしていたのだけど、ほとんどおばあちゃんの話を聞いた記憶がなくて、もちろん、母親のことも、聞かなかった。

母は祖母にとって、どんな娘だったのだろう。

 

昨日、母の兄の妻にあたる人から、感情をあまり見せなかった祖母が生前に一度、「千春にはかわいそうなことをした」と、つぶやいて涙していたという話を聞いた。

 

嫁いで行った娘を、守ってやれなかったという想いがあったんだろう。

 

 

 

昨日は久しぶりにいとこのお母さんとも会って、娘に手を焼いているなんて話を聞きながら、家族というもののおもしろさであったり、難しさであったりを、すごく感じながら、4人暮らしをしていた頃の自分の家族のことを思い出していた。

 

僕の家族は母がいなかったし、兄と祖母は喧嘩ばかりしていたし、兄は高卒で家を追い出されて、そのあとバイトを掛け持ちして生計を立てることになったし、ちょっと異常な家族だった。

 

母親の子ども時代はどうだったんだろう。

いとこ兄妹の関係を、そのお母さんから聞いていて、無性に母の子どもの頃のことが知りたくなった。

母のお兄さんは、60を過ぎた今も大工をしている。どちらかというと無口であまり語りたがらないかもしれないけれど、いつか子どもの頃の母のことを聞いてみたい。

 

なんだか怖いけれど、知らないまま死ぬより、知っておきたいと思う。

土曜日の朝の、なんとなくなこと。

 

 

世間は4連休で、昨日のテレビでは海に遊びに来た人を映したり、政府の旅行促進のキャンペーンが観光業界を混乱させているだとか、感染症の感染者がまた急増しているのに緊急事態宣言は出ないとか、そんな話をしていた。

 

奈良のテレビ局では高校野球奈良県の独自大会を放送していて、強豪校が県立高校に大差をつけてコールド勝ちする様子が流れていた。

 

カレンダーどおりに働かない僕は今日が5連勤の最終日だけど昼からの勤務で、最近の仕事中にあったショッキングな話やできごとや、心のエネルギーを使う案件を、朝、家で育てているゴーヤやナスやミニトマトやアボカドに癒してもらっている。

 

 

安楽死のこととか、芸能人の自死のこととか、ほかにもいろいろともやもやすることが多くて、久しぶりに山にでも登りたい気分だ。

 

なんで一般人のことならタブー視される自死が、有名人だったらこんなに大きく報道されるんだろう。なんでみんないずれ死ぬのに、死ぬことがこんなにも暗いトーンで語られるのだろう。

 

周りの人に生き続けたいと思ってもらうために、自分は何ができているんだろう。

 

 

語りすぎることは違うと思うし、無視することも違う気がする。

 

 

母の死の理由を知ってからあれだけこのテーマについて考えて、勉強もしたというのに、いまの自分は何も言えなくなってしまった。

 

しんどければ逃げた方がいいってことくらい。

 

だけど、逃げる場所が、この世の別の場所なのか、それともあの世かって、逃げた本人にとってどれだけの違いがあるんだろう。常にその行為に対してネガティブな評価をするのは残った側の人間で、本人の幸福は誰にもわからない。

 

 

周りの人に死んでほしくなかったら、普段から積極的に、その人たちが喜ぶようなことをしないといけないんだろう。自分が死にたくなかったら、普段から積極的に、自分が喜ぶようなことをしないといけない。

 

それくらいしかできない。

 

自分がしてほしいことを、できればまず誰かにやってあげること。そして自分に戻ってきた優しさが、結構嬉しかったりする。

 

しんどいことはなくならないから、それを上回るくらい嬉しいことや、幸せな時間を作らないといけなくて、そこに誰かがいたら、もっと嬉しい。ひとりの方が楽なことも、たくさんあるけれど。

 

何のメッセージも結論もないけれど、ときどき思うことを言葉にしてみた。

 

読んでくれた人に、今日一日、いいことがありますように。

読んでくれた人の周りの人にも、いいことがありますように。

「歩ける」というアドバンテージ

 

 

恋愛成就の神様

 

プライバシーのことがあるから、福祉の現場の仕事のことをブログで発信することはほとんどやってこなかった。いろいろ気を使って書くのが大変で、書くことはほとんどないのだけど、仕事の経験や、それを通して感じたことについて残しておきたいと思うことは多々ある。

 

障害のある人と関わる仕事をしていると日々、考えさせられることに直面する。最近またそういうことがあったので、少しメモしておく。

 

 

 

Aさんはまだ若くて、先天的な身体障害で歩くことができず、トイレや食事なども介助が必要だ。知的なハンディキャップも一部にはあるけれど、世代が近いのもあり、彼と僕は友達感覚で話をすることが多い。

 

彼は長い間彼女をほしがっていて、だけどまだできたことがない。

そんな彼が、「今度恋愛成就の神社に行きたいけれど、どこがいいか」と聞いてきた。

 

わりと僕は彼にストレートにものを言うので、このとき。「恋愛のことで神社にお願いしにいったことないからわからんわー。」と正直に答えると、

「○○くんは歩けるもんなあ。」と返ってきた。

 

歩けないということが彼にとって、恋愛においてもとても大きなハンディキャップで、一方歩ける僕は、自由に歩けるから神様に頼まなくても恋愛がうまくいくんだろうと、そういう意味で彼は言ったのだ。

 

歩けても必ずしも恋愛がうまくいくわけはないし、自由に歩ける僕だって失恋の経験は何度もあるけど、彼にとって、「歩ける」、「歩けない」というのは恋愛がうまくいくことに関係する他の要因を、全部無視できるほどの大きな差だってことだ。

 

実際、異性と出会う数の多さとか、気になった人へのアプローチが自由にできるかとか、そういったことを考えるとやはり、外出にヘルパーを必要とするということは圧倒的に大きなハードルになってくる。

 

歩けなくてもパートナーがいる人がいるとか、結婚してる人がいるというのも一方で事実なのだけど、歩ける僕が、そう言い返すことはできない。。

 

歩けるとか、喋れるとか、こうして文字を書けるとか、僕が当たり前に思ってきたことが、当たり前でない人にとっては喉から手がでるほどの能力なんだなと、そういうことに、この仕事をしていると何度も気づかされる。

 

子どものときの僕にとって、クラスメイトに母さんがいるのが羨ましくて、だけどそのクラスメイトはお母さんがいるなんて当たり前だから、反抗期になると、「昨日イライラして母親を殴った」なんて話をしていた。その話を聞いたときの、悶々とした感覚を思い出す。意識するたびに羨ましかったし、そのことを考えるたびにコンプレックスを感じていた。

 

その逆なんだ。自分は今、羨望の対象なんだ。

 

本当に当たり前なんて何もなくて、今こうして自分がいられるありがたみを、贅沢さを、もっと常に、わかっていたい。

そして自分がどうあるべきか、歩けない彼の希望に、どう関わっていくべきかを考えないといけないな。

 

歩ける自分にできることなんて、限られているのだけど。

靴を家の洗濯機で洗う。

 

二泊三日、岐阜の恵那市や静岡で友人や彼女と会っていた。

 

最初予約していたキャンプ場が関東出身のお客さんの受け入れをいま中止していて、

急遽恵那市AirBnBに泊まり、翌日静岡にいる大学時代の友人とも会って充実した時間をすごしていたのだけど、その間気になっていたことがひとつだけあった。

 

 

靴が臭い。

 

 

普段使いのスニーカーをはいてきたのだけど、しばらく雨が続いていてにおいがきつくなっていたのを、前日遅くまで仕事で手入れする暇もなく、そのままできてしまった。

というか手入れといっても消臭スプレーくらいしかなくて、それをしたところであんまり匂いがかわらなかったんだよなあ。

 

臭い靴を履くのがいやになって、草履を買って途中からそれをはいたりしていた。

久しぶりに履いた草履が気持ちよくて結構気に入っているから、結果的によかったと言えばよかったけど、靴のにおいもどうにかしたい。

 

 

こないだnoteでフォローしている人が、靴をコインランドリーで洗濯した話を載せていたのを思い出して、靴の洗濯について調べたら、家の洗濯機でもできるらしい。

 

帰ったら久しぶりにいい天気だったので、午後からの仕事の前に洗濯してみることにした。

紐や中敷をはずしてから軽く汚れを落とし、洗濯ネットに入れ液体洗剤を多めに入れて洗濯する。大きな音がしたり洗濯機が壊れたりしないか少し心配だったけど、今のところ普段の服の洗濯と変わりなく回っている。音もあまり大きくない。

 

これで匂いがとれるといいな。リビングで洗濯機が回る音を聞きながら、こんな取り留めのないことをなんとなく残してみる。

 

こんな小さなどうでもいいようなこと、あんまり書かないけど、こういう些細なことを時々読みたくなったりするんだよな。