考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

国民教育の恐ろしさについて

 

イスラエルの教育についてイスラエル人が語った記事がyahooニュースに上がっていた。

 

被害の歴史を教えて、パレスチナ人を人と見なさず、今後過去のような被害が起きないようにパレスチナ人の犠牲は仕方ないと伝える教育の結果、今のような残虐なことが起きてしまっている。

 

 

 

 

 

news.yahoo.co.jp

 

 

 

かなりしんどい内容なのだけど、読んでみると、人間というのは、こういった教育を受けてしまったら、こんな風に考えるようになってしまうのだな、というのがわかる。

 

 

アラブ人や、ムスリム国家に囲まれた地域で、1つの国として存在する以上、国民としての団結は強いものになるだろうし、それゆえに、多くの人が信じていることと別の考えを持つようになるのも、難しいことなのかもしれない。

 

 

 イスラエルにはナクバについて書かれた本もあるが、あえて読む人は非常に少ないという。「自分の国が加害者だったと認めたくないから、わざわざ調べようとはしない。日本で言えば、従軍慰安婦問題や南京虐殺と似ている」と話す。「自分の国の非を認めるのは大変なこと。今回のガザ戦闘みたいなことをやっても、それでも自分の国が悪いとは認めたくない」

 

ナクバ、すなわち自分たちの加害行為については教えない。

そうした方が、国民をまとめやすいのも事実なんだろう。

 

 

そして、欧米諸国も含めて、パレスチナ人を犠牲にすることを厭わない。

なぜか、自分と違う宗教や人種の人たちを虐げても良いと思っている。

 

 

自分たちが我慢するよりも、他者を犠牲にした方がマシなのだろうか…

 

 

「自国の非を認めたがらず、近隣諸国を見下す。これは日本とも共通している」と矛先をこちらに向けられ、考えさせられた。故国を離れた愛国者だからこそ理解できる、とは言いたくない。国を離れずとも理解する努力が必要だ。

 

最後の言葉が重い。

誰かを見下し、虐げる権利など、本来誰にもないはず。

 

さて、自分は誰かを見下していないだろうか、自分の非を軽んじてないだろうかと、自分に問いかける。