考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

復学してから考える、休学のこと

 

春だ。

 

つい数週間前までの寒さはなくなり、近くの河川敷には桜が咲いて、休日の昨日はたくさんの人が花見をしていた。きっと今日もそうだろう。

 

大学に行くとサークルの新歓で人がごった返しているに違いない。

人混みが嫌いな僕は、想像しただけでぞっとする。

 

 

花粉は、少しは落ち着いてきたんだろうか。

20枚くらい買っておいたマスクを使い切って、また買いに行くのがめんどくさくて無防備な鼻で外に出ているが、あまり鼻水もでない。

 

過ごしやすい、いい季節だ。

 

 

 

去年の10月から大学を半年間休学していた僕は、4月に入って自動的に復学した。

と言ってもまだ授業はないし-そもそも卒論以外の単位は取り切ってるから授業に出ないでいいんだけど-、4月は平日の昼もバイトの日が多いから復学した実感はほとんどない。

 

実感が出るのは履修届を出すころだろうか。

 

 

思い返せば、このブログを始めた理由のひとつが、休学して時間に余裕ができたことだったし、休学期間のできごとや考えたことなどを書き残すことがこのブログの目的でもあった。

だから、休学期間が終わる前に、休学そのものについての自分の考えもまとめたいとずっと思ってたんだけど、なかなか文章にできるまでまとまらなくて、気が付いたら休学が終わってしまっていた。

 

 

休学したことや、その期間に自分がしてきたことについて評価をするべきなのは、もう少し後の自分なのかもしれないと今は思うのだけれど、この期間のことを忘れないためにも、今思うことを無理やりまとめてみようと思う。

 

ただでさえ考えがまとまっていないうえ、文章が拡散してはとんでもないことになると思うので、先に文章の流れを決めておく。

1休学の理由と休学する前の心境

2休学したあとの生活と周りの反応

3休学という選択肢について思うこと

 

ざっとこんな流れで文章を書くことにする。

 

 

休学の理由と休学する前の心境

以前のブログにも書いたことがあるが、僕が休学した主な理由は進路についての迷いと、去年の6~7月ごろ、卒論を進められる精神状態じゃなかったことだ。

 

もともと僕は、家族に精神的な病を抱える人がいたことをきっかけに臨床心理士を目指していたが、去年大学4回生になり、自分がカウンセラーになる日が近づいてきたと思うようになってからは、かなりのプレッシャーを感じていた。

情けないことに、クライエント(来談者)の悩みを引き受けられる自信が僕にはなかったし、自分の言葉でクライエントを傷つけてしまったり、クライエントが自殺したりすることがないかと恐れるようになっていたのだ。

 

また、5月6月に家族の二人の精神状態が悪くなった。錯乱状態にある家族から暴言を浴びせられ、それによって僕自身の過去の苦しみ(虐待や家庭内暴力を見てきたこと、昔母親の心中未遂や自殺の話を聞いてショックを受けたことなど)が呼び起こされていて、冷静に卒論に向かえる状態ではなかった。卒論の指導教員の先生にもそのことは相談していたが、5月ごろから休学したいという気持ちはあったように思う。

 

それでも休学を決めるのに数か月かかったのは、自分の中で、「休学は逃げだ」という意識があったからだ。休学している周りの人を見て「あいつは逃げている」なんて思ったことはそれまで一度もなかったし、療養なども含めて、それ相応の理由があって休学するのはいい決断だと思っていた。しかし、いざ自分の問題として考えてみると、留学や何かしらの活動のためというのではなく、心を休め、進路について迷うために休学することは、進むべき道に一歩踏み出すことを先延ばしするだけのように思えたのだ。

 

 

それでも、7月ごろどうしても卒論を進められなくなってしまい、先生と相談した結果、休学することを決めた。将来の仕事に不安しか抱けないままで臨床心理学の卒論に向かうことに限界が来ていたのだと思う。

 

当時同居していた父親には休学は反対されていたし、大学5年目の仕送りは出さないと言われていたが、一度休学を決めたあとは、それまでの迷いはふっきれて、5年目は自分で稼ぐからと、休学の意思を貫いた。

 

 

休学したあとの生活と周りの反応

久しぶりに会う友達に後期から休学すると伝えると、半分以上の人が、「留学するの?」と聞いてきた。それほど、僕の通う国立大学には、留学のために休学をする人が多いんだろう。実際、僕の知っているだけでも、休学して海外に行ったという人は数えきれないほどいる。

 

精神療養と進路に迷うための休学とはいえ、その期間で短期留学をするという選択肢はないこともなかったが、「留学するの?」と聞かれるたびに、(聞いた人に必ずしもそんな気持ちがあったとは思わないが)「留学でもしないと休学してはいけないのか?」という謎の反骨心のようなものが生まれ、意地でも休学期間中に外国には行かないぞと、かたくなになってしまっていた。

 

結果的に「休学期間中に外国には行かない」という目標は一応達成したが、このこだわりが良かったのかどうかはわからない。

 

 

休学後しばらくは、あまりバイトもせず、とにかく心を休めることに専念していた。

 

そのころの、何も予定がなく、勉強などの課題にも追われない日々は、思えば物心ついてから初めてだった。小学校から大学まで、常に学校があったし、宿題や受験勉強、部活があった。何もしなくてもいい生活では受け身にはなりえないから、自然と積極的に何をしようかと考えるようになる。1日1日、今日は何をしようと考えるのはとても新鮮だった。

 

 

最初のうちは、好きな本を読んだり、先輩に誘われた草野球をしたり、友達とキャッチボールやバレーなどをしたりしていた。

 

このときに読んでいた、アランの幸福論(村井章子さんの訳)は、力んで緊張していた心から、不要な力を抜いていくための大きな助けになった。

 

今はもう行っていないが、引っ越しのときにお世話になったキリスト教の教会にもたまに通っていた。

 

 

しばらくして落ち着いて将来のことを考えられるようになってからは、勉強をしたり、興味のある仕事をしている人に話を聞きに行ったりするようになった。臨床心理士とは違う目標もわりと早くに決まった。

 

 

そのころから、やりたいことややるべきことを書くようにしていた部屋のホワイトボードには、「休学しても学ぶことを休まない」と書いていた。

大学で勉強することが増え、「休学してるのにいつも大学おるやん」と、同じ学部の同期の友達につっこまれた。

 

 

また、5年目に経済的に親から自立するために、バイトも再びはじめ、少しずつ増やしていった。

そして、4月、今ではバイトを4つ掛け持ちしていて忙しいが、臨床心理士とは別の進路を志しながら、わりと楽しくやれている。

 

 

 

休学前から休学期間まで僕の生活を、だいぶざっくりとまとめた。他にも、休学期間中にやっていたこと、考えたことはこのブログに今までたくさん書いてきたので、興味を持たれた方はそちらも読んでほしい。

 

 

 

休学という選択肢について思うこと

こんな風にブログを書いてみると、ほかの人から見ると、「このブログの筆者にも休学するだけのまっとうな理由があったんじゃないか」と思われるかもしれない。

けれど、僕の通う国立大学の休学届けには、休学理由を選んでチェックする部分に、留学、療養、進路の変更などと並んで、就学意欲の減退なんてものがある。

「大学の勉強やる気なくなったから休学する」のも、実は許されるのだ。

 

休学して、自分が今まで乗ってきたレールから降りて外からそれを眺めて、初めて気づくことは必ずあると思う。

留年と違って休学にはお金があまりかからないし、自分のやっている勉強がなんか違うなとか、このまま進んでいっていいのだろうか、なんて思ったときには、休学を考えてみたらいいのかもしれない。一回きりの人生だから、一度止まって、進路を選びなおすのは悪いことじゃない。

もちろん、早く働いて老齢の親を養わないといけないとか、家の借金を返さないといけないとか、そういった理由で就職を急ぐ必要があるなら、話は別だが。

 

 

学校教育や日本の社会制度の中では、学年というものに追われて生きていくのが当たり前になっている。でも、例えばダウン症の子が自分の半分の年齢の子がやっているような勉強をゆっくりゆっくりやっていくように、本当は進学や就職に関しても、人それぞれ、進むべきペースは違うはずだ。

 

最近、この春就職した友人とごはんに行って、職場の話を聞きながら、過去に自分が浪人して、行きたい大学に先に通う友人の話を聞いていたのと、似たものを感じた。

 

次男の僕は、小さいころから、兄のやっていることを見たあとで自分も真似してやってみるということが多かった。そんな幼いころの僕はとても臆病な性格で、集団の中で最初に何かに挑戦するのは苦手だったし、今でもその性格は残っている。だから、先にほかの人に、自分の人生の次のステップについて話を聞けるとかなり安心する。

 

それに、何をするにしても、兄と比べて自分はいつもゆっくりだった。悪く言えば、のろまな人間だ。

 

そんなのろまな人間にはそれにふさわしいペースがあると、今では開き直っている。

 

 

もちろん、休学するのが誰にとってもいいなんてことはない。

 

けれど、自分の人生の進むスピードは、自分で決めるのがきっとベストで、

在学中にいっせいに就活をするのが一般的な今の日本ではそれが難しいように思うかもしれないけど、実は休学という制度を使えば人生のペースを調整できる。

 

そして、勇気を出して選んだその決断は決して逃げではないし、自分でどんな1日にするか決められる休学期間は、それまでに知らなかった多くのものを見つけられる有意義な時間になるよと、休学を迷っている人には言いたい。

 

 

 

 

 

休みの日に、やめることについて

昨日は一日中用事があってとてもブログを書く余裕がなかったので、今日書くことにしました。

毎週金曜日は夕方からボランティアがあって昼間のバイトも重なったときは忙しいけれど、金曜日に更新できなくても、週末にはなるべく更新するようにしよう。

「金曜日のひとりごと」じゃなくて、「週末のひとりごと」に変えようかな。

 

公務員試験の勉強が今少しピンチなので、今日はやや短めで。

 

 

おととい、僕の同級生の卒業式があって、同じ教育学部の人たちと卒業式後に飲んだり語ったりしていた。僕は卒業しないんだけど、もう一生会わない人もいそうだと、みんな言うのと同じようなことを思って飲み会に参加することにした。

 

6時からの学部の一次会がひと段落したあと、各々サークルの飲み会に移ったり、サークルに入っていない人は学部の二次会に移ったりするんだけれど、僕は教育学部の飲み会のあと、文学部の二次会に参加した。

 

文学部には仲のいい友人が多く、四年間で何度も鍋をしたり、飲みに行ったり、旅行に行ったりと、まあ、言ってしまえば文学部の一部の人たちの集まりが、僕にとってサークルみたいなものになっていたのだ。

 

 

文学部の二次会は、腕相撲大会から始まった。ある男子が女子バレー部のキャプテンに、「運動神経のいいバレー部キャプテンの○○を、男女の性差でこれからねじ伏せます!」などと豪語して挑んで負けるという、お決まりにしてはおもしろすぎる笑いもあった。

 

 

文学部の二次会にはこの日初めて会う人も数人いたけど、フレンドリーというか、無頓着というか、会うのが初めてかどうかなんて大して気にしないところが彼らにはあるので、総じて楽しく過ごせた。

 

初対面の僕が隣にいる場で、まあまあ大変な身の上話をして数人で盛り上がったり、恥ずかしさに打ち勝って一発芸をして爆笑を誘う人がいたり、まあ、お酒のおかげってのもあるんだろうけど、わりとなんでもありで、なんでも受け入れられるような雰囲気がそこにはあったのだ。

 

 

その文学部の二次会の途中で、教育学部の僕と工学部三回生のNくんとで話していたことが個人的におもしろかったので、それについてちょっと書いてみようと思う。

 

 

 

飲み会の場での話なんてころころ転がっていくものだから、まとめるのが難しいんだけど、僕が彼との会話でおもしろいと思った部分を強引に要約すると、

「大学時代に無理に苦しいことを続けようとすることに意味はあるのか」

「苦しくても続けてしまってどんどん悪くなっていくことが、大学のサークルでもあるんだから社会には五万とあるだろう」

「自分のする行為に無理やり“意義”を見出すことに意味はあるのか」

「理想の集団ってどんなだろう」

というような話だった。

 

 

大学のサークルというと皆さんなんとなく、「ただのんびり楽しく好きなことをやっているもの」、「男女の出会いの場」、なんていうイメージを持たれているかもしれないが、実はそれだけでもなくて(まあ100%楽しいなんて現実にあるわけはないんだけど)、何か決めるために例えば深夜までしんどい中ミーティングをしたりだとか、社会的に価値のあると思われるイベントを企画してものすごく労力がかかって苦しんだりすることがよくあるサークルも多い。そして中には、「そうやって苦しむことは社会に出てからきっと役に立つし、サークルのために無理して頑張っている人は素晴らしい」という風潮がある集団もある。それも、少なからず。

 

 

「苦しいことをするのが成長につながる」といった精神論が飛び交う中学や高校の部活動なんかに近いものを、大学生たちが違う分野でやっていると思ってもらえるとわかりやすいのかもしれない。

そこには、サークルであるにも関わらず、やめられない、やめてはいけない雰囲気さえもある。

 

先に、僕やN君の考え方の偏りというか、傾きを指摘しておこう。

僕もN君も、程度や方向性の差こそあれ、一度そういった集団に入っていたがいやになってやめた身である。

だから、やめて別の道を選んだ自分の選択を肯定的に受け止めるというバイアスがかかっているとは思うが、上記のような集団には否定的である。

また、僕やN君の目から見たらそのように見えるというだけで、続けてやってきた人にはそのサークルはそんなに悪いものには映っていないかもしれないという点も指摘しておこう。

 

N君は、「社会に出たらどうせしんどい仕事もしないといけないんだから、大学生のサークルでは楽に、好きなことをやっていればいいじゃないか」という意見で、僕もそれに賛成だ。サークルで苦しい経験をしたことが社会で活かされる保証はどこにもないし、苦しいことに慣れるということは苦しみに鈍感なるというのと同義である。それは気分障害のリスクを高めることにもつながりかねない。

 

そして、苦しくても続けるというのは、企業に当てはめれば業績が悪くてもいつか日の目を見ることを信じて事業を続けるということになって、それは損切りができないこと、つまりリスクヘッジが下手なのではないか、というふうなことをN君は言っていた。

 

 

大学四年間で僕は5個以上のサークルや団体に参加して、10以上のバイトを経験してきたが、逆にいうと、それだけ多く、いろいろなことをやめてきた、ということでもある。

 

それでも、しんどいと思っても1年くらいやめられなかったものもあるから、「やめられない」という気持ちも、なんとなくわかっているつもりだ。

 

「やめられない」という気持ちは、「やめられなかった」として、やめたあとで湧いてくることが多いのかもしれない。というのも、しんどいことを続けているときは、「やめる」という選択肢が見えていないこともあるからだ。

人は、現在苦しくても続けているものに対して意義を見出すそうとする。しんどくても何かそれがプラスになっていると思わないとやっていられないからだろう。そして、自分で考え出した意義のために、あるいは今まで苦しんできた自分を否定したくないがために、苦しくてもその活動を続けようとする。

 

最初にその活動を始めようと思ったのは、決してそのような意義のためではなく、単に「楽しそうだったから」であるにもかかわらず。

 

 

では、どうやってそのような継続のデフレスパイラルから抜け出すことができるのだろうか。

僕が集団から抜けるか、それとも続けるかを決めるときの基準として大切にしているのは、その集団の雰囲気やそこで行われる活動が、「自分の肌にあうかどうか」とか、「そこにいることや、それをすることよって自由な気分になれるか」というような、感覚依存的なものであることが多い。そして、そのような基準で継続を選んだものに関しては、今も楽しく続けられているし、そこから学ぶことも多い。

 

 

 

集団内の人間関係や、行動指針、活動内容など、自分がそこに居続けるか考える際に基準となる要素はたくさんあると思うが、自分の直感や感覚を大事にしてみてもいいと思う。

 

 

自分にとっての理想に近い集団に出会うためには、いろんなところを経験してみないといけなくて、そのためには、今やっていることから距離を置くのも大切かもしれないですね。

 

 

今日はこの辺で。

 

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週末っていうと、元々はユダヤ教徒の休日の土曜日だったんですね。カレンダーなんかに見られるように伝統的には日曜日が週の始まりだったそう。

今ではヨーロッパでも日曜日が週の終わりになっているみたいだけど。

 

週末ってかなりあいまいな言葉で、金・土・日を合わせて週末と呼ぶことも今ではあるんだって。

それってイスラム教ユダヤ教キリスト教の休息日ですね。

 

週末 - Wikipedia

 

週末のひとりごとも、金・土・日のどれかに更新しよう。

 

                                              週末のひとりごと。2016/3/26(土)

 

 

 

一貫性は善か

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金曜日のひとりごと、これで4週目。

先週は、書き終わったときにはもう日付が変わってて土曜日の投稿になってしまったけれど、なんとか継続してやれている。

これからはもう少し、いい文章が書けるように心がけよう。

 

 

 

最近、複数の友人がはてなブログを始めたのを知って、うれしく思った。

読んでみるとおもしろくて、ところどころにものすごく共感できる箇所があって、テンションが上がる。そんな話をその人としたことが全くなかったから、余計に。

 

 

友人が普段どんなふうに物事を考えているのかを知る機会は意外と少なくて、例えばサシで飲みに行って熱く語り合ったとしても、その時間で話せることってほんとうに限られている。

しかもその友人と自分との関係性のなかで話題は決まってしまうから、その人がほかの人との間で話す話題を自分は知ることができないし、その人が一人のときにどんなことを考えているかを知るのはもっと難しい。

 

友人の持つ、自分が知らない側面を、ふたりの関わりの中だけで新しく発見することは難しいのかもしれない。

 

たとえば長い間交際している相手がいて、会う頻度もそれなりに高くてなんとなく相手のことはだいたいわかっているような気がしていても、共通の友人と三人で初めて集まって話したときに、それまで全く知らなかった交際相手の趣味やエピソードを知ることになった、なんてことは珍しくないだろう。

 

 

最近、卒業のシーズンということもあって、自分が普段よくかかわるメンバーが人生の節目節目でどんどん変わっていくことを意識する。大学時代によく遊んでいた友人とも、距離が離れてしまえば年に数回しか会わなくなって、もしかしたら、死ぬまでにあと10回も会わない、なんてことになるのかもしれない。

 

限られた時間の中で、友人のことをどれくらい知れるんだろうか。

中学のころ、「親しいと思っている人のことを自分は3%も知らないんだろうなあ」なんてよく思っていたけど、実際は3%なんてもんじゃなくて、人生で一番長く、あるいは深くかかわった人のことでさえも、自分は0.0001%も知らずに死んでしまうんだろうと思う。

 

 

そんなことを考えると寂しくなってしまうから、ブログを通して友人が経験していること、考えていることなんかを知ることができたらいいと思う。

 

 

 

前置きが長くなってしまったが、ここから本題、じゃなくて2つめの前置き。

 

 

 

2つめは、いい加減決めたい話だ。

どのタイカレーが一番自分の好みか、いい加減決めたいという話だ。

 

 

以前タイカレー屋さんでバイトしてからタイカレーのおいしさに虜になってしまった。

タイカレー屋さんのバイトをクビになってからも、別のタイカレー屋さんに食べに行ったり、レトルトや缶詰のタイカレーをよく食べている。

 

スーパーでレトルトカレーを選ぶとき、僕にとって一番大事な基準は、「タイカレーか、否か」である。

 

みなさんご存知のように、タイカレーには、主にマサマンカレー、レッドカレーグリーンカレーイエローカレーがあるが、その違いはもはや常識なので省く。

 

最強の缶詰と呼ばれるいなばのタイカレーシリーズの中では、チキンとタイカレーレッドが一番好みだ。

イエローやグリーンもスパイシーで悪くはないが、レッドに比べるともうひとつうまみに欠ける。

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缶詰はいなば、レトルトはヤマモリがタイカレーの代表格だが、

300円するヤマモリ(タイダンス)のレトルトタイカレーを一つ買うより安いいなばの缶詰を2つ買って食べるほうがお得かなと思う。

缶詰のタイカレーは、一つ一つが少量で廉価だから複数の味の組み合わせができるところもよくて、イエロー×レッド、イエロー×グリーンなども試してみるとおもしろい。

 

家で安く食べれるタイカレーはいなばの缶詰がベストかと思ってたんだけど、自分で具材を加えて煮込むタイプ(一番上の写真のやつ)を初めて食べて、缶詰やレトルトとは全く違う風味に驚いた。

 

鶏肉を加えて煮込むだけと書かれていたから、僕は迷わず鶏むね肉を選んだ。

タイカレーには鶏むね肉が合うからとか、日本人の鶏むね肉の消費量が少ない問題を少しでも解消するためとか、そんな理由じゃない。

単に安いからだ。

 

このマサマンカレーはピーナッツの味がすごく強くて、原材料のサツマイモがジャガイモみたいな味で、クセになりそうだ。

 

いなばの缶詰を一位にするのは早計だったのかもしれない。

 

 

けれども、タイカレーに惚れてからもう3年がたつんだから、どのタイカレーが一番自分の好みか、いい加減決めたい。

 

 

 

 

一貫性と矛盾

 

前置きと本題のギャップがすごい。

 

僕が高校生のころたぶん一番よく悩んだテーマが「継続は美徳か」ってことなんだけど、それに関しては自分の中であんまり美徳じゃないって結論に落ち着いている。

 

それに少し近いテーマで、「矛盾はいけないことなのか」っていうのを、大学に入ってから何度か疑問に思うことがあった。

 

例えば、友達がある宗教を勧めてきて、「この宗教は矛盾がないからいい」なんてことを言ったとき。

「え、ちょっと待って、宗教って矛盾してたらあかんの?そもそも矛盾って言葉を悪いことのように使ってるけど、人間みんな矛盾を抱えてるし、それを受け入れることのほうが大事なんちゃうん?」って、とっさに自分の感覚とは相いれないものをその友人に感じてしまった。

 

「始めから終わりまで同じ一つの方針・考えによっていること」、「最初から最後まで矛盾がない状態であること」を一貫性と呼ぶらしいから、一貫性は矛盾の対極と考えていいだろう。

 

矛盾を悪、一貫していることをよいこととするのは、理系的な発想なのかもしれないと、文系の僕は思う。

数式や論理には矛盾があってはいけない。

 

文系の中でも、心理学や精神病理をそこそこ勉強してきた僕は、たとえば精神病の患者さんの支離滅裂な思考や、解離なんかを見て、人間が矛盾だらけの存在だという認識を持つようになり、そういった矛盾の中に魅力を感じるようになってきた。

 

 

一方で、仕事の面接などでは、一貫性があることがよしとされているように感じる。他をよく知らないが、公務員の面接では、大学での経験と職業の志望動機がつながっていれば(見方を変えれば過去の関心や問題意識が、就活中の自分のそれらと一貫しているということだ)、高評価を得られ、通りやすいという話を聞いたことがある。

 

 

 

 

一貫性は善なのか、という問題がここでも生まれる。

「大学時代はこういうことに問題意識を持って取り組んできたけど、仕事では全然違うことをしてみたい」ではなぜいけないのか。

 

 

また別のことに関心が移って、仕事をすぐやめられると困るから?それだけ?

 

 

 

 

 

 

今週の火曜日に、同志社大学の近くのインパクトハブ京都という場所で開催されたイベントに参加した。

kyoto.impacthub.net

 

 

 

通信制高校に通う人たちの中退や進路未決定のままでの卒業(ニートになること)を防ぐ活動をするNPO法人D×Pの共同代表の今井さんと、”人”を映すことで紛争中の国や3.11の震災被害地域の様子、日本の貧困問題などを伝える活動をしているフォトジャーナリストの安田さんの対談がこの場所であったのだ。

 

 

 

 

ふたりの話は本当に刺激的だった。

彼らは昔から壮絶かつユニークな人生を送ってきていて、

(子供のころに親や兄弟を亡くしたのをきっかけに海外に行ったり、高校生のときにイラクで人質になったり…)

人生経験を聞くだけで相当感じるものが多かった。

 

 

彼らは決して一貫して一つのことをやってきたわけではない。

安田さんの問題意識や関心は新しい出会いを契機にどんどん変わっていくし、

今井さんはイラクから帰ってきてひきこもりになってから、20代後半までやることが定まっていなかったという。

一貫せずに、いろんなことに関心を持って、追いかけてきて、その中で様々な人と出会ってきたからこそ、彼らは多くの人と交流を深めることができるようになり、今も様々な人に支えられながら活動していけるんだと思う。

 

フォトジャーナリスト 安田菜津紀 / Natsuki Yasuda|いつも心にお陽さまを。

D×Pが重視している言葉に、社会関係資本というものがある。社会関係資本の大きさとは、簡単に言うと、どれだけ多様なコミュニティに属し、多様な知人・友人がいるかということらしい。D×Pのホームページには、社会関係資本が進路決定に大きく影響すると書かれている。


多様なコミュニティーに属するためには、いろんな関心をもっていないといけないわけで、そのためには、一貫してひとつのことをしているだけじゃいけないんじゃないかと僕は考える。
問題意識や関心は、時がたてば当然変わっていくし、それを素直に追いかけていったほうが、結果的に多様な人とかかわれるようになるはず。


対談のなかで安田さんは学生に向けて、今は自分が取り組みたいと思うような問題が決まっていなくても、いろんな経験をして多様な人と接して、問題意識が生まれたときに役立つようなピース(piece)をたくさん胸に蓄えていくようにと言っていた。


その話を聞きながら僕が考えていたのは、対人援助職に就くものにとっては、経験のピースを蓄えていくときに同時にできる、幅広い分野の人との関わりが、将来仕事にも大きく役立ってきそうだということだった。


仕事をはじめないと実際のところはわからないけれども。

 

哲学者のように論じることは僕にはできないけど、

一貫性は善かというテーマへのスタンスも、なんとなく固まってきた気がする。

 

自分はやっぱり、一貫しないで、たくさんの矛盾を内包した人間でありたい。

 

www.dreampossibility.com