考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

図書館に関するあれこれ②

 

まだ自分が小学生だったころ、兄が統合失調症になって家で暴れたりすることがあり、

それでなくても家族はよく喧嘩をしており、家は僕にとってあまり居心地のいい場所ではなかった。

 

特に家族のメンバーの暴力がひどかった日には「どこか外に行ってなさい」などと言われ、本が好きだったのでよく図書館に避難していた。

 

小学生の頃に住んでいた地域の図書館には、ドラえもんドラゴンボールなどの漫画が数種類おいてあって、ズッコケ三人組などの児童書とともに、ドラえもんの漫画をよく読んでいた。頻繁に図書館に行っていたので、その図書館に置いてあった分全てを読んでしまった記憶がある。

 

中学に上がるときに引っ越し、中学校の頃はあまり頻繁に図書館にはいかなかったけれど、高校や浪人になって大学受験の勉強をするときには、また図書館を利用していた。高校の頃に住んでいた地域の図書館に行くには、家からは長い坂を上っていかないといけなかったけれど、自転車で登っていき、夜8時の閉館時間までよくそこで勉強していた。

 

当時図書館は僕にとって、本を読んだり借りたりする場所、とか、自習をするための場所という認識だった。多くの図書館利用者にとって、それが一般的なイメージではないかとも思う。

 

 

旅先で初めて図書館を訪れたのは、大学時代に、沖縄を旅行していたときだ。

沖縄出身の友人の帰省に合わせて僕も沖縄に遊びに行っていたんだけど、一人旅が好きな僕は、途中から石垣島を一人で回っていた。その日石垣島はあいにくの大雨で、たまたま泊まっていた宿の近くに図書館があったから、沖縄のことを勉強するのにもいいだろうと、図書館に足を運んだ。

 

石垣島の図書館は沖縄らしい赤い瓦屋根の建物で、中には昔の漁師が使っていた船を再現した展示もあって、沖縄らしさを出していておもしろかった。

琉球新報などの沖縄の新聞も置いてあって、旅先で図書館にいけばその地域の新聞が読めて、そこに住む人々の日常を知れると気づいたのはそのときだったかもしれない。

 

 

前置きが長くなったけど、それ以降、よく旅先で図書館に立ち寄るようになった。

ネットで調べても出てくるのだけれど、魅力的な図書館というのは全国に多数あって、

たとえば去年訪れた東京の北区図書館や武蔵野プレイス、青森の十和田市民図書館はいずれも2005年以降に建てられた比較的新しい図書館で、建築にかなりこだわっていて、居心地がとても良い素敵な場所だ。

 

公共空間のデザイン

図書館は、誰でも自由に入ることのできる公共空間だ。

カードを作って本を借りることができるのはその地域の住人あるいは働いている人という制約がある場合もある(実はこれも図書館によって違っていて、例えば東京の千代田区の図書館や石垣の図書館はその土地に初めて訪れた人でもカードを作れて本を借りることができる)が、公立の図書館であれば基本的に無料で立ち入って、だれでもそこで本を読むことができる。

 

そういった公共空間がどのようにデザインされているかはとても大事で、その街にひとつ、人がお金を使わなくても快適に過ごせる場所があるかどうかで、人々の幸福度が変わるんじゃないかとさえ感じたのが、1月6日と7日に訪れていた、岐阜市にある「みんなの森ぎふメディアコスモス」という、2階に岐阜市中央図書館のある複合施設だ。

 

公式ホームページ

g-mediacosmos.jp

 

キナリノの紹介記事(写真がたくさん)

kinarino.jp

 

キナリノの記事を見てもらえればなんとなく雰囲気がわかると思うんだけど、

建築がとにかくおしゃれでおもしろい。天井にはヒノキが使われていて、2階に上がるとその香りが少しして、視覚的にも、嗅覚的にもいい気分にしてくれる。

 

さらに素敵なのが、親子連れが過ごしやすいように、子どもが多少騒いでいても大目に見てあげるように館長が利用者に呼びかけているところ。

 

やわらかくて暖かいイメージの建築だから、集中して本を読むというよりも、好きな本を読みながらなんとなく日中を過ごせる場という雰囲気にもなっていて、だからなのか、小さな子どももたくさんいて遊びまわったりするのだけれど、誰も嫌な目で見たりすることがない。

 

トウ()でできた、大きな輪っかの形の椅子も、子どもが興味を示す遊び場のようなつくりになっていて、実際ぼくがここで本を読んでいた時も1歳半くらいの子供がよちよちと歩きながら登って行ったりしてて、でもそれがとっても自然に感じられた

 

その子が、本を読んでいる僕のほうに寄ってきたのだけど、それがあまりにも自然で、邪魔な感じは一切しなくてむしろ遊んであげたくなって。そういうのも、この場所の持つ力なのかなって。

 

お母さんも雑誌を読んでいましたが、子連れでも躊躇なく連れてこれる場所なんだろうなあと思います。

 

 

自分の興味に没頭できる公の場

 

メディアコスモスの輪の形の籐の椅子(キナリノの記事に写真)で本を読んでいると、なんとなく他の人たちがいるのが目に入って意識するんだけど、それぞれが読書を通して自分の世界に没入することを楽しんでいるなあと思って。

 

パブリックな場のにものすごくプライベートな時間を過ごせているのがすごいなって思ったんです。

かと思えば、メディアコスモスの1階には、ミーティングをしたりみんなで集まって話ができるような場所もたくさんあって、場所を変えることで、いろんな形で人とつながれる、自分の開き方、閉じ方を自然に変化させることのできる場所で、いま振り返ってみてもすごい場所でした。

 

もちろん建築なんて好みは人それぞれと思うので皆が好きになるとは思いませんが、イチオシの図書館なので、ぜひ行ってみてください。

 

ちなみに、登山や銭湯が好きな方は、近くに岐阜城のあって山頂から長良川がよく見える金華山や、のはら湯という420円で入れる天然温泉の銭湯もあるので、そちらもおすすめです。

 

ではでは~

(なぜか途中から丁寧語になっていた)

1010gifu.com

図書館に関するあれこれ①

 

行きつけの図書館が年末年始の休館期間を終えて、昨日から開館した。

昨日は仕事で行けなかったのだけど、今朝久しぶり(といっても10日ぶりくらい)に足を運んだ。

 

これから図書館に関することをいくつか、何回かに分けて書いていこうと思う。

 

僕は図書館が大好きだ。大学の頃から、旅先でなんとなくその土地の図書館に寄ることはあったのだけれど、就職してから図書館好きに拍車がかかり、昨年末くらいから、行った事のない図書館を訪れる目的で他府県へと出かけるようになった。大学ではほぼ毎日書物に触れていたのに、普段仕事では本を読むことがないから、知的欲求不満がたまっているのだと思う。

これから書こうとしている奈良県立図書情報館は僕の家から自転車で10分ほどのところにある。就職して奈良に引っ越すときに、この図書館の近くで部屋を借りることに決めた、お気に入りの図書館だ。

 

この図書館は頻繁にイベントを開いていたり、本を紹介する特集がユニークでおもしろかったりするのだけど、昨日から始まった”書評296(ぶくろ)”と題した企画はそのセンスのよさに感動したので、ここに紹介したいと思う。

 

 

本の選び方

 

 

 

 

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情報館のFBでも紹介されているんだけど、この企画は、296冊の本を白い封筒に入れ、その書評を封筒の表に書いて、書評の内容で本を選んでもらおうという取り組み。

 

自然・生き物、芸術・文化、暮らし・身体といったように、ざっくりとジャンルわけされて並べられているんだけど、本の装丁やタイトルは見えないし、書評には著者名も書かれていない。

 

だから本の見た目であったり、著者やタイトルではなく、純粋に、書評から想像する本の内容だけで選ぶことになる。手に取れば、その本の重さや分厚さはわかるんだけど。

 

いくつかの書評を読みながら気づいたんだけど、書評だけだと第一印象ではどの書物も全く等価で、おもしろそう、おもしろくなさそうって直感で思うことはない。

書評の文章を読んでみて初めて自分の関心に合うのか、それともあまり興味のない分野なのかを判断できる。

 

逆に普段どれだけ、本の外見、つまり新しさやカバーのデザインといったものや、タイトルのキャッチーさや著者で本の第一印象が決まってるのかを思い知った。

本の内容が自分にとってヒットするものであったとしても、第一印象がよくないために手に取ることのない本がたくさんあるのかもしれないから、これから少し、本の選び方を意識して書店や図書館で本を見てみようと思う。

 

ちなみに今回僕が借りたのは、「本書のタイトルは、どうにも答えの出ない事態に耐える能力のことです」で始まる書評の本。著者は精神科医ということだったので、タイトルは「レジリエンス」かなと思ったんだけど、違って、それもおもしろかった。

 

内容を想像して、実際封を開けてみる楽しみは福袋みたいで正月にぴったりだと思う。

 

今これを読んでいる方がもし2月17日までに奈良県立図書情報館に行く機会があれば、ぜひ3階のコーナーに寄って、書評から本を選んでみてください。

 

きっと新しい発見があると思います。

 

去年の元日のこと。

 

 

年が明けて2019年になった。元日の昼を父親の家で家族と過ごし、祖母を老人ホームの近くまで送ってから、奈良の家に帰る。初詣に行こうものならそこは人でごった返していて、僕は存分に正月気分を味わっていたのだろうけれど、神社にもお寺にも行かなかったから、静かな気分で1月1日の夜を迎えている。

正月のざわざわした雰囲気が僕は苦手だから、今日も一人暮らしの部屋で静かに、本を読んだり、料理をしたり、こうして文章を書いたりする。

学生時代から貧困の問題に関心のある僕は、twitterでホームレス支援をしている人や団体のアカウントをフォローしている。今日、家族の集まりに向かう電車の中でtwitterを開いていたら、参議院議員山本太郎さんが炊き出しのボランティアをしている写真が流れてきて、去年の正月のことを思い出し、なんとなく、書いて振り返ってみたくなった。

去年、24歳から25歳になる歳の秋に、僕は生まれて初めて正社員になった。”障がい者福祉”という分野の仕事を選んだ。福祉ホームと呼ばれる障害のある人たちが住む住居で、宿直もある仕事。年末年始もお盆も、誰かスタッフがいないといけなくて、去年の大晦日、僕は昼から夜まで、勤務があった。

翌日の元日は家族で集まる予定も、友人と初詣に行くような予定もなく、暇を覚悟していたら、大晦日の宿直のーつまり僕と交代で勤務に入り、元日にかけて、年越しを職場で迎えるー先輩スタッフから、「毎年、年末年始とお盆は大阪の釜ヶ崎でボランティアをしている」という話を聞いた。

大阪育ちで、高校は釜ヶ崎の割と近くだった。しかも大学の頃、ここでの越冬闘争(行政の支援がなくなる年末年始に、ホームレスの人たちが寒さでなくならないように皆で力を合わせて乗り切るための炊き出しなどの活動、といったところだろうか)に関わっている人と親交があったのに、一度も釜ヶ崎に足を運んだことがなかった。

先輩に話を聞いて、勢いで、一緒にボランティアをすることに決めた。友人を誘ったら、たぶんその友人も軽いノリで来てくれることになって、ココルームという、ゲストハウスの掃除のお手伝いなどを、元日にすることにした。

当日、新今宮駅から歩いてきたものの、場所がわからず迷っていると、釜ヶ崎のおっちゃんが声をかけてくれて、「俺はやんちゃしすぎて出禁になったんやけどな」と言いながらもゲストハウスに案内してくれた。

そのおっちゃんは自転車に乗って徒歩の僕たちを案内しながら、道中で政治の話や釜ヶ崎の話をたくさんしていた。知識は豊富で話もかなりおもしろかったけど、昼から酔っ払っているのか、同じネタを何度か言っていた。

ゲストハウスを見学させてもらい、お金を払って、おせちを一緒に食べた後、シャワールームの掃除をした。

毎年手伝いに言っている職場の先輩は、「何か特別なことをするわけではないけれど、年末年始も働かないといけない人の普段の仕事の一部を代わりにして、少しでも楽をさせたい」というようなことを言っていた。

終わってから、ゲストハウスの庭で友人とゆっくり喋ったあと、夜は三角公園という、毎年越冬闘争の舞台(炊き出しやステージでの出し物が行われる)となる場所に連れて行ってもらった。釜ヶ崎のいたるところにある、酒の売られている自販機で、100円か200円かの安い日本酒を買って飲みながら、職場の先輩やホームレスのおっちゃんたちと立ち話をしていた。

去年、冬を乗り越えられず、一人、なくなってしまったらしい。

その日は月がやたらと綺麗で、三角公園から月の見える方角には、天王寺に数年前にできた、資本の象徴のような高い高い高層ビルの灯りが見えて、まぶしかった。

寒い中炊き出しの列に並ぶおっちゃんや、ボランティアに来ている人たちといながらその光を見上げて感じたのは、お金持ちを憎たらしく思うとかそういう類のものではなくて、この格差を、日本のリアルを自分は知っているのだという誇らしさのようなものだった。現実のほんの一部しか知らないくせに、酔っていたぼくは、そんな風に思った。

 

寒くなってから、家に帰り、布団に入った。

外気から守ってくれ、安心して眠れる家があり、暖かい布団に包まれることができることを、心から嬉しく思って、その日ぼくは、眠りについた。