考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

悪夢の前後

夢の話 

 

 

久しぶりに、気分が悪くなる夢を見た。

 

 

詳しい内容はあえて書かないけど、

ある人にしつこく干渉され、拒否をしても怒りながらさらに干渉してくるというものだった。

現実の人生でも過去に実際にあって、かなり身近な人との関係だったから避けることができなかった。

そのことを僕は長い間忘れていたが、昔ずいぶんその人との関係に苦しんだ。

 

 

 

起きてしばらく、その夢の余韻に苦しむことしかできなかった。

 

少し楽になってから、この夢をどう捉えようかと考えた。

しばらく忘れてはいたが、その夢に関連する記憶は自分にとってすごく大きなものだったからだ。

 

何かの教訓にしようかとか、自分が他の人に対して似たことをしていないか反省しようなどと考えた。

でも、そういうふうに意識的にこの夢を捉えなおすことは、何か違う気がした。

 

夢にかかわらず、いろんな現象を教訓として捉え直そうとすれば、自分にとって都合のいい解釈になりがちだし、既存の価値観の上塗りになってしまうことが多い。

 

ちょうど、本を読んで自分が共感する部分にばかり線を引いてしまうのと同じように。

 

それが必ずしも悪いこととは思わないけど、

今はなんとなくそうはしたくないから、ただ苦しみに耽るだけにしようと思った。

 

 

夢の前

 

それにしても、

どうしてその人との体験が今になって夢に出てきたのかと、過去を振り返る。

 

すると思い当たることがいくつかあった。

 

 

昨日ミスドで勉強をしているとき、隣の席に座った男女がしていた悪夢の話、

 

昨夜テレビでやっていた、アメリカの自由と民主主義の価値観がISなどの過激派に犯されているのに対抗してアメリカが国家戦略として若者に自国の価値観の魅力を広げようとしているという思想戦の話

(「思想戦」という言葉がとても引っかかった。言論の自由の前に思想の自由があるのに、それを国家的にコントロールしようとするのはどうなのか。とても干渉的に思えた。)、

 

そして、寝る前に目をつむってなんとなく過去のことを振り返り、

昔の自分の行動や経験を思い出しながら、

「あのときの自分の延長に、今の自分がいるんだ」ということをぼんやりと意識したこと。

 

 

 

 

これらのことが、かつて人に過度に干渉された辛い経験に基づく悪夢をもたらしたと考えると、納得がいく。

 

 

他の人はどうなのか知らないけど、夢の話をしたり聴いたりした日の夜は結構な頻度で夢を見るから不思議だ。

いや、本当は毎日夢を見てるけど忘れてしまうだけらしいから、夢を覚えているっていう方が正確か。

 

人は一度意識したものを記憶に残しやすいっていうのは、寝ている時の経験でも同じなのな。

 

 

 

 

 夢の後

 

昨晩のテレビの思想戦の話を聞きながらも考えていたが、

他の人への干渉というものを、悪夢の苦しみから解放されてから改めて考えた。

 

 

 

干渉

他人のことに立ち入って自分の 意思に従わせようとすること。

 

たとえば洗脳のように、あからさまに人の思想や行動を変えるようなものは世間的に嫌悪されるし、自分もしようと思わないし今もしていない。

(無意識に人に影響を及ぼすことはよくあるけど、「自分が今誰かを洗脳していない」ということはかなり自信をもって言える)

 

 

一方、教育を通して子どもたちの思想に甚大な影響を与えることについては世間は比較的無頓着だし、その内容を詳しく知らない場合には、教育は正しいことと捉えられがちだ。

のちのちに教育が人を苦しめることは少なくないんだけれど、このことは今はおいておこう。

 

 

 

干渉というものをもっと広くとらえて、多かれ少なかれ人の考え方に影響を及ぼすものと定義したら、例えばSNSの投稿さえも、そこに当人の何らかの価値観がふくまれていたら、それを見る人からすれば干渉になるのかもしれない。

Facebookにいいね!をしたりTwitterでリツイートしたりして、それがフォロワーの目に届くなら、それさえも。)

 

 

そう思ったら、
自分の考えを外に出すことが自分や他者に与える影響に無頓着になってしまっているように感じて嫌になって、SNSから距離を置くことにした。

 

もう何度目かわからない。Facebookをやめるのも、Twitterをやめるのも。

どうせまた数ヵ月後にはじめてしまうのかな…と思うけど。

 

 

 

昨日のテレビ番組でナレーターがインターネットが若者の思想に与える影響を話していた。

民主主義とかグローバル化が広まり、インターネットが普及してからもう何年も経つ。表現の自由がしきりに叫ばれるけど、人の表現から自由になる方法はわからない。

 

 

普段僕は、自分のふとした発言が他の人に届くことがもつ意味を忘れて、当たり前のように思ったことをいい、当たり前のように、浴びるように、人の発言を読んだり聞いたりする。

 

 

そこには普段の会話でなされるような、自分の思想や人生観に照らして考える作業はなくて、知らないうちに侵食しあって、干渉しあっているのかもしれない。

 

 

 

じゃあ、人から干渉されずに、自分も人を干渉しないために、どんな生き方をすればいいのか。

 

自分と人が違うことをもっと意識して、自分の価値観が自分だけのものだって思う?

ーずっと意識するのは難しいけど、意味はあるかもしれない。その発言が、自分の価値観に基づく意見だってもっと注意したい。

 

人との関わりをできるだけリアル(対面)で行う?

ーリアルじゃなくても、不特定多数よりは少数でやったほうが相手の人格を意識できるからいい。

 

思想に影響をおよぼすようなことはできるだけ避けて、

趣味や作業、遊びを通してのみ人と関わるようにする?

ーなんかちょっと寂しい気がする。深い話もしたい。

そもそも、コミュニケーション自体が選択可能であればそれでいいわけで、お互いに関わりたくて関わっている人とはいろんな話をしたらいい。

でも、普段からあんまり自分の意見とか言わないほうが奥ゆかしくていいかも。これをどう感じるかは人によるかな。

 

 

人とのつながりから離れて、自分の好きなこと、ひとりでできる趣味にもっと没頭していく?

ーこれが一番わかりやすくてやりやすいのかも…

ひとりでできる趣味を通して、もっと思想を深めていきたい。

 

 

前からやりたかった家庭菜園、始めてみよう。

 

 

 

 

 

 

なんてオチだ!