考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

図書館に関するあれこれ①

 

行きつけの図書館が年末年始の休館期間を終えて、昨日から開館した。

昨日は仕事で行けなかったのだけど、今朝久しぶり(といっても10日ぶりくらい)に足を運んだ。

 

これから図書館に関することをいくつか、何回かに分けて書いていこうと思う。

 

僕は図書館が大好きだ。大学の頃から、旅先でなんとなくその土地の図書館に寄ることはあったのだけれど、就職してから図書館好きに拍車がかかり、昨年末くらいから、行った事のない図書館を訪れる目的で他府県へと出かけるようになった。大学ではほぼ毎日書物に触れていたのに、普段仕事では本を読むことがないから、知的欲求不満がたまっているのだと思う。

これから書こうとしている奈良県立図書情報館は僕の家から自転車で10分ほどのところにある。就職して奈良に引っ越すときに、この図書館の近くで部屋を借りることに決めた、お気に入りの図書館だ。

 

この図書館は頻繁にイベントを開いていたり、本を紹介する特集がユニークでおもしろかったりするのだけど、昨日から始まった”書評296(ぶくろ)”と題した企画はそのセンスのよさに感動したので、ここに紹介したいと思う。

 

 

本の選び方

 

 

 

 

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情報館のFBでも紹介されているんだけど、この企画は、296冊の本を白い封筒に入れ、その書評を封筒の表に書いて、書評の内容で本を選んでもらおうという取り組み。

 

自然・生き物、芸術・文化、暮らし・身体といったように、ざっくりとジャンルわけされて並べられているんだけど、本の装丁やタイトルは見えないし、書評には著者名も書かれていない。

 

だから本の見た目であったり、著者やタイトルではなく、純粋に、書評から想像する本の内容だけで選ぶことになる。手に取れば、その本の重さや分厚さはわかるんだけど。

 

いくつかの書評を読みながら気づいたんだけど、書評だけだと第一印象ではどの書物も全く等価で、おもしろそう、おもしろくなさそうって直感で思うことはない。

書評の文章を読んでみて初めて自分の関心に合うのか、それともあまり興味のない分野なのかを判断できる。

 

逆に普段どれだけ、本の外見、つまり新しさやカバーのデザインといったものや、タイトルのキャッチーさや著者で本の第一印象が決まってるのかを思い知った。

本の内容が自分にとってヒットするものであったとしても、第一印象がよくないために手に取ることのない本がたくさんあるのかもしれないから、これから少し、本の選び方を意識して書店や図書館で本を見てみようと思う。

 

ちなみに今回僕が借りたのは、「本書のタイトルは、どうにも答えの出ない事態に耐える能力のことです」で始まる書評の本。著者は精神科医ということだったので、タイトルは「レジリエンス」かなと思ったんだけど、違って、それもおもしろかった。

 

内容を想像して、実際封を開けてみる楽しみは福袋みたいで正月にぴったりだと思う。

 

今これを読んでいる方がもし2月17日までに奈良県立図書情報館に行く機会があれば、ぜひ3階のコーナーに寄って、書評から本を選んでみてください。

 

きっと新しい発見があると思います。

 

去年の元日のこと。

 

 

年が明けて2019年になった。元日の昼を父親の家で家族と過ごし、祖母を老人ホームの近くまで送ってから、奈良の家に帰る。初詣に行こうものならそこは人でごった返していて、僕は存分に正月気分を味わっていたのだろうけれど、神社にもお寺にも行かなかったから、静かな気分で1月1日の夜を迎えている。

正月のざわざわした雰囲気が僕は苦手だから、今日も一人暮らしの部屋で静かに、本を読んだり、料理をしたり、こうして文章を書いたりする。

学生時代から貧困の問題に関心のある僕は、twitterでホームレス支援をしている人や団体のアカウントをフォローしている。今日、家族の集まりに向かう電車の中でtwitterを開いていたら、参議院議員山本太郎さんが炊き出しのボランティアをしている写真が流れてきて、去年の正月のことを思い出し、なんとなく、書いて振り返ってみたくなった。

去年、24歳から25歳になる歳の秋に、僕は生まれて初めて正社員になった。”障がい者福祉”という分野の仕事を選んだ。福祉ホームと呼ばれる障害のある人たちが住む住居で、宿直もある仕事。年末年始もお盆も、誰かスタッフがいないといけなくて、去年の大晦日、僕は昼から夜まで、勤務があった。

翌日の元日は家族で集まる予定も、友人と初詣に行くような予定もなく、暇を覚悟していたら、大晦日の宿直のーつまり僕と交代で勤務に入り、元日にかけて、年越しを職場で迎えるー先輩スタッフから、「毎年、年末年始とお盆は大阪の釜ヶ崎でボランティアをしている」という話を聞いた。

大阪育ちで、高校は釜ヶ崎の割と近くだった。しかも大学の頃、ここでの越冬闘争(行政の支援がなくなる年末年始に、ホームレスの人たちが寒さでなくならないように皆で力を合わせて乗り切るための炊き出しなどの活動、といったところだろうか)に関わっている人と親交があったのに、一度も釜ヶ崎に足を運んだことがなかった。

先輩に話を聞いて、勢いで、一緒にボランティアをすることに決めた。友人を誘ったら、たぶんその友人も軽いノリで来てくれることになって、ココルームという、ゲストハウスの掃除のお手伝いなどを、元日にすることにした。

当日、新今宮駅から歩いてきたものの、場所がわからず迷っていると、釜ヶ崎のおっちゃんが声をかけてくれて、「俺はやんちゃしすぎて出禁になったんやけどな」と言いながらもゲストハウスに案内してくれた。

そのおっちゃんは自転車に乗って徒歩の僕たちを案内しながら、道中で政治の話や釜ヶ崎の話をたくさんしていた。知識は豊富で話もかなりおもしろかったけど、昼から酔っ払っているのか、同じネタを何度か言っていた。

ゲストハウスを見学させてもらい、お金を払って、おせちを一緒に食べた後、シャワールームの掃除をした。

毎年手伝いに言っている職場の先輩は、「何か特別なことをするわけではないけれど、年末年始も働かないといけない人の普段の仕事の一部を代わりにして、少しでも楽をさせたい」というようなことを言っていた。

終わってから、ゲストハウスの庭で友人とゆっくり喋ったあと、夜は三角公園という、毎年越冬闘争の舞台(炊き出しやステージでの出し物が行われる)となる場所に連れて行ってもらった。釜ヶ崎のいたるところにある、酒の売られている自販機で、100円か200円かの安い日本酒を買って飲みながら、職場の先輩やホームレスのおっちゃんたちと立ち話をしていた。

去年、冬を乗り越えられず、一人、なくなってしまったらしい。

その日は月がやたらと綺麗で、三角公園から月の見える方角には、天王寺に数年前にできた、資本の象徴のような高い高い高層ビルの灯りが見えて、まぶしかった。

寒い中炊き出しの列に並ぶおっちゃんや、ボランティアに来ている人たちといながらその光を見上げて感じたのは、お金持ちを憎たらしく思うとかそういう類のものではなくて、この格差を、日本のリアルを自分は知っているのだという誇らしさのようなものだった。現実のほんの一部しか知らないくせに、酔っていたぼくは、そんな風に思った。

 

寒くなってから、家に帰り、布団に入った。

外気から守ってくれ、安心して眠れる家があり、暖かい布団に包まれることができることを、心から嬉しく思って、その日ぼくは、眠りについた。

辺野古埋め立て中断の署名に関して思うこと

署名

 

Stop the landfill of Henoko / Oura Bay until a referendum can be held in Okinawa | We the People: Your Voice in Our Government

 

リンクを上に貼ったホワイトハウスへの署名を知ったのが、始まって3日後くらいだっただろうか。たぶん、仕事終わりの駅のホームでTwitterを見ていたときだったと思う。

僕はスマホで署名をした。

署名をしたあと、どれくらいまで伸びるのか気にしてちょくちょく確認していたら、著名人の呼びかけなどもあって先日まで急速に伸びていたけれど、署名の期限があと10日くらいになったいま、17万人弱のところで、少し伸び悩んでいるみたいだ。

 

もうこの辺野古の土砂投入の問題は、ローラの件もあったから(僕はあまりテレビを見ないから実際のところを知らないけれど)マスメディアによって日本人に十分に知られたのかもしれないし、

海外メディアにも多数とりあげられたようで、今後件数が20万や30万になったりならなかったりしたところで、国際社会や日本人に対するそのインパクトの大きさはあまり変わらないのかもしれない。

けれど、1.2億人くらいの人口の国で、17万人って、実際署名した人の割合は0.13%とかで、なんだかあまりにも寂しい気がする。

まあ、他の署名も最大36万人とかで、アメリカの3億以上の人口からしたら割合はもっと少なくて、署名というものは人口の0.1%、1000人に1人でも集まれば、ものすごく集まったと言えるのかもしれないけれど。

 

それに今回の署名は、ホワイトハウスに訴える英語の署名っていう点で多くの日本人にとってのハードルもあるだろうし、そもそも日本人のなかには、署名なんてしたことないからそもそもの署名に対するハードルが高いとか政治にそこまで積極的に働けかけたことがないっていう人もいるだろう。

 

だけど、選挙で自分が入れた一票は死票になって何も政治に影響しないことも多いし、しかもいくつかの争点があってそのすべてにおいて自分の望むことを主張する人はいないなかで、ベターな候補に入れるしかない。それに比べたら署名って、特定の問題に対する自分の意見を明確に表明できるチャンスなのに、それをしないのってすごくもったいないなあと思う。

 

 

沖縄

 

僕は大学のころに2回、友人の実家を拠点にして、合わせて1か月ほど、沖縄に滞在したことがある。

 

京都での忙しい学生生活では味わえない、ゆったりした時間を体験させてもらった。きれいな海や八重山の離島の満天の星空も見たし、おいしい魚もたくさん食べさせてもらった。アメリカのバーガーチェーン、A&Wの揚げ物やストロベリーサンデーもおいしかった。禁酒法の時代にアメリカでビールの代わりにできた炭酸飲料ルートビアも、変な味がするなあと思ったけど悪くなかった。

www.awok.co.jp

いや、まあ、だからなんやねんって感じやし、それはどうでもいいっちゃいいんやけど(だんだん関西弁になってくる)、そうやって息子の友達である僕にいろんな経験をさせてくれた、友人のお母さんが、2回、普天間の基地の近くの嘉数高台公園に連れて行ってくれた。本州の人間に、基地の現実を知ってほしいんだろう。

 

嘉数高台公園|普天間基地が一望できる沖縄戦の激戦地

 

 

基地が民家のすぐ近くにどでかく位置していて、騒音もものすごかったし、何度も事故が起きていることも教えてもらった。

 

県内の別の島で育ったそのお母さんは、本島に最初に来たとき、沖縄県民が入ることのできない基地がたくさんあることを知ってショックを受け、植民地のように感じたと言っていた。

 

その方は少しでも早く普天間をなくしたほうがいいと思っていたから、今回の県知事選でも移設容認派の候補に入れたかもしれない。

移設容認派にも、反対派にも、僕の想像もつかないようないろんな思いがあると思う。

 

けれど、今回の県知事選で、沖縄で住んで、基地を身近に見て米軍と共存している沖縄県民が、それでも辺野古に基地を作るべきではないと判断したのなら、そして日本政府が、自分たちの国が民主主義国家であるつもりなのなら(ぼく個人的には、日本の民主主義や制度は形だけで、民主国家を名乗れるレベルではないと思っているけど、)その県民の意見を尊重するのが筋だと思う。

 

日本って国は、国民が国全体のことを考えるにはきっとあまりにも広くて、人口も多すぎるし、人は自分たちの仕事や家族、身近なことで忙しすぎるんだと思う。

けれど、沖縄を日本のものだと思うのなら、沖縄県民を自分たち日本人の一員だと思うのなら、自分たちが選挙で選んだ政府が彼らの意思に背いた行動をとることに対して、責任をもって止めないといけなくて、それをしないのは、あまりにも無責任で自分勝手に感じてしまう。

 

そう感じるのは僕が、沖縄の人たちとつながりを持っていて、彼らに優しくされたことがあるから、なんだろうけれど。

 

これからも、旅をして、いろんな地域の人と関わろうと思う。