考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

月に一度大阪の精神科病院を訪れていて、時々感じること。

 

きっかけは祖母の入院だった。

見舞いに行った日、祖母は閉鎖病棟にいた。

高いビルをまるまる使った、何百もの病床がありそうな新しく綺麗な精神病院。

その病院の5階の、案内してくれた看護師が3回鍵を開けた先にある部屋で祖母は過ごしていた。

 

時計もテレビもカレンダーもない殺風景な部屋だった。祖母いわく、携帯も雑誌も、日記帳さえも没収されたらしい。担当の精神科医と話すなかで、内科の症状はないのに毎日採血をしていることを知った。服薬を怠っていないかを確認する目的で、血中の薬の成分の濃度を測るためらしい。

 

日記も書かせてくれない病院の職員に祖母は憤っていて、そのことは看護師さんの目には、「症状が落ち着いていない」と映っているようだった。

 

「あなたがここで働いて、この病院のルールを変えなさい!」と、たしかに症状が落ち着いていないようにも見える祖母に言われたのが、2年と少し前の話だ。

 

それから僕は、当時好んで通っていた京都府立図書館でがむしゃらに日本の精神病院のことを調べ、暴力事件や患者の死、人権侵害の歴史を知り、海外と比べて日本の精神科患者の入院者数と入院日数が極端に長いこと、入院患者に対する看護師の割合が少ないこと、それが高度成長期に政府が決めた特例によるものであること、日本では精神科病院は利益を追求しなければ潰れてしまうという、制度面の問題があることなどを学んだ。

 

当時デンマークへ留学する予定だった僕は留学中に学ぶテーマを、親元で暮らせない子どもの支援から精神医療へと切り替え、北欧の精神医療や、精神病の患者やリスクの高い人への公的なサービスを学んで日本に帰ってきた。デンマークではPsyk infoと呼ばれる精神医療情報センターで、精神病や虐待、アルコール依存症などのさまざまな困りごとに対する市民の相談を受けていた。そこでは3回まで無料のカウンセリングが受けられ、必要に応じて自助団体などを紹介してもらえるらしい。デンマーク精神科医の話によると、この国の精神科の治療は薬や入院にはできるだけ頼らず、運動、食事など生活習慣を整えることから状況の改善を目指す方向に向かっていた。

 

帰国後、NPOのボランティアで、月に一回ほど大阪の精神科病院を訪問して、面会を望む患者さんに会いに行く活動をするようになってから、約1年が経った。

 

2019年現在も、日本には30万人弱の人が入院していて、20年以上入院している人もたくさんいるし、精神科病院で高齢になって亡くなっていく人も多い。病院の個室は外から丸見えになっていることもあり、ベッドしか置かれていないというケースも珍しくない。相変わらず患者さんの携帯はたいてい職員に管理されるし、所持金を管理して毎日100円以上の管理費を徴収している病院もある。

 

もちろん、そうじゃない病院もあるし、患者さんのことを親身に考えるスタッフや、退院を目指して真摯な支援をするケースワーカーもたくさんいると思う。実際そういう看護師さんや精神保健福祉士にもこれまでたくさん出会ってきた。

患者さんの自由を奪いたくて病院で働くことを決めた人なんていないと信じている。行動の制限や人権侵害が問題になっているところも、入院患者に比べて職員が少なすぎるために手厚い支援ができないという、余裕のなさから来る問題が大きいと僕は思っている。

 

 

普段僕は奈良で、脳性まひや自閉症、知的障害など、身体面その他に障害のある人と関わる仕事をしている。

仕事で関わる障害のある人たちは皆、福祉サービスを利用していて、普段は実家で暮らしたり、福祉ホームに住んだりしていて、日中は就労支援の事業所などを利用して仕事をしたり、ガイドヘルプを利用したりして出かけたりもする。

 

僕の職場は日々楽しそうに過ごしている人が多いから、こっちも楽しく働けているのだけれど、月に1度のボランティアで精神科病院で出会う人たちと似たような障害のある人もいる。

 

精神科病院とかかわりのない人には想像もつかないことかもしれないけれど、日本の精神科病院には、統合失調症うつ病といった、後天的に誰しもがなりうるような精神病の人だけではなく、知的障害や自閉症スペクトラムなど、精神病ではない先天的な障害のある人も入院している。

 

家族が面倒を見られなくなったとか、事件を起こしてしまったとか、入院のきっかけはいろいろだ。今でもそうなのかわからないけれど、20年前まで、マタニティブルーでも精神病院に入院するようなこともよくあって、そのまま出られず何十年も入院している人がいるくらいだから、障害理解が進んでいない時代に、知的障害や自閉症の人が精神科に入院させられていたのは不思議なことではない。

 

面会に行って会う人のなかには、躁や鬱などの気分障害や、妄想などの陽性症状がない、穏やかな人もたくさんいる。

 

そういう人は、僕が普段働いているような福祉ホームに住んで、日々楽しく過ごし、休日は行きたい場所にでかけ、好きなことをして過ごしていても何もおかしくないと思う。

 

その人が精神科病院のなかにいるか外で過ごしているかは、それまでの偶然の積み重ね、つまりは運でしかないんだと感じる。

性格が人それぞれなのと同じで、境遇や生い立ちも人それぞれ違う。

精神科病院からの退院を家族に拒否される人もいれば、外出が自由な福祉ホームに住んでいても、毎週末会いにきて外食に連れ出してくれる親のいる人もいる。

 

別にどっちがいいとか、幸せかはわからない。

一度も精神科に入院しない人の人生が幸せかどうかわからないのと同じように、

精神病院で40年間入院して退院することなく死んでいく人の人生が、不幸かどうかなんて誰にもわからない。

21世紀の前半には、病気でなくても抗うつ薬を毎朝飲んで、幸福感を保っているような人もいる。そんな時代に、幸せの定義を本人以外が決めることは、もはや馬鹿らしいのかもしれない。

 

ただ、入院しているかどうかとか、その人がどれだけ自由に、自分が過ごしたいように過ごしているか(閉鎖病棟開放病棟か、なども含め)というのが、日本で現状、その人の症状や生活能力だけに依存しているものでは決してなくて、家族など周囲の人たちとの関係性や、どの病院に入院して、どの先生や看護師やケースワーカーにあたったかという運に左右されているということは間違いないと思う。

 

人の人生が運に左右されるというのは、いつの時代でも、どの地域でも変わりないことだと思う。生まれる時代や国や家族を、これまで誰一人として選ぶことはできなかったはずだし、これからもきっとそうだろう。

 

ただ、病院や福祉サービスというものは、その人の健康や人生の豊かさが、運に左右されないためにあるものじゃないだろうか。

 

たとえば生活保護という制度は、その人が貧困という不運のために死んでしまうことがないように作られた制度だと思う。(作った人の実際の気持ちは知らないからあくまで勝手な想像だけど)

 

ならば精神科病院も、運によって入院期間や生活の自由度や処遇が左右されてほしくない。

 

すべての精神病院が、患者の尊厳を守り、退院の希望を聞いて支援できる、患者にとって望ましい場所になる。

そのことを目指して、NPO大阪精神医療人権センターのボランティアの人たちは、

仕事の休日を使って、目立たないところで、熱い思いを持って活動をしている。

 

その人たちの静かで熱い思いや、優しさと強さを併せ持つ空気感が僕は好きで、

ひっそりと長く、このボランティアを続けていきたいなあと思っている。

 

 

www.psy-jinken-osaka.org

虐待死の事件をニュースで知ってからのこと

 

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camp-fire.jp

 

 

 

soar-world.com

 

 

明日、NPO精神医療人権センターの精神病院への面会ボランティアをしたあと、同NPOの事務所に行ってデンマークの公的な精神保健サービスなどについて紹介するつもりでいて、その資料作りがひと段落した。

 

今日午後からの勤務の前に、書きたいことができたので、PCを開いたついでに、ここに書いている。

時間があまりないので、さっと書いてみる。

 

小4女児の虐待死の話が、ここ最近、ニュース番組で流れていた。

家でテレビを見ない僕も、勤務先の福祉ホームのリビングで流れているのでよく目にする。

 

仕事中なのでずっと見ているわけに行かず、あまり詳しくは知らないのだが、twitterなどを見ていると、児相の職員の対応を責める声が多いらしい。

 

これについては、児相の職員の人間性(恐怖に屈してしまう人としての性(さが))に言及した精神科医の高木俊介さんのfacebookの投稿(公開)にすごく共感したし、児相を責める声に対する僕の個人的な、直感的な感想としては、「そう言う人はこれまで、虐待が日本にたくさんあることを知っていて、この問題に何かしらアプローチしてきたんだろうか」という反発がある。しているのかもしれないけどね。

 

大学のころ、虐待死に関する論文を読むころがあった。

厚労省の統計によると虐待死のケースは年間数10件(心中含めると100件近かった気がする)だが、虐待の(認知)件数が年々増加しているのは新聞などにもよく載っている。

今回の事件との関係性はわからないし、あの父親を擁護したいわけでもないが、核家族の増加、自身の親を頼れずに子育てする大変な親も増えていて、それがこれまでもずっと問題視されてきた。

 

家族の少人数化で子育てを家族だけでするのが困難な時代になってきているにも関わらず、地縁は弱まり、近所の人も頼れないという、厳しい状況で子育てをする親は多い。

 

そういう僕も、育ったのは虐待のある家庭で、そのことで外部からの支援はいっさいなく、苦しい子ども時代だった。今回の事件で虐待死させた父親も、同僚には虐待のことを気づかれていなかったようだが、僕の家族でよく暴力をふるっていた人も、家族の外では愛想もよく、外から見たらいい養育者だったと思う。

 

虐待”死”となるとインパクトは相当大きいけれど、虐待を受けるなどして、家族のもとで暮らせない子どもは本当にたくさんいるし、虐待を受けながらも育った家庭で暮らす人はもっと多いだろう。

 

施設で暮らす人たちを支援する団体や、家族で子育てする親を支援するNPOなどは探せばたくさんあって、でもまだ数も人手も予算も十分とは言えず、寄付を募っているところは多い。

 

僕は幼児期に乳児院にいたことが(もっと踏み込んで言えば、0歳のときに親に首をしめられて殺されかけたことも)あるので、児童福祉施設の人にはシンパシーのようなものを感じ、その人たちの境遇を少しでも楽なものにしたいと思って、毎月小額だがNPOに寄付をしたりしている。

 

去年、里親や児童福祉施設出身者の全国ネットワークを作るための集会の交通費をクラウドファンディングで募っていたのを見つけたので少し寄付をしたら、その返礼品として、東京の国分寺にあるアフターケア相談所のりんごジャムが昨日届いた。(本当は1月末に届いていたのだけれど受け取れず、再配達してもらった。お手数かけました。)

 

おいしかったし嬉しかったので、その写真をSNSにあげたら、友達がゆずりはの記事を紹介してくれて、その記事もとても良かった。

 

どの子どもにも「生きていてくれて、ありがとう」と伝えたい。児童養護施設等から巣立つ子どもたちを支える「ゆずりは」高橋亜美さん | soar(ソア)

 

www.acyuzuriha.com

 

僕らは生まれてくる”家族”を選ぶことはできないし、ひとつひとつの家族に外部の人が働きかけるのは、まだまだ”家”の垣根が高い(むしろプライバシーの概念のために高まっているのかもしれない)日本社会では容易ではないけど、自分たちの住む社会を、皆で子育てをしていけたり、子育てする人を支えあったりするのが当たり前な社会に変えていく方法は、寄付でもボランティアでも、近所の人に優しくするでも、きっと無数にあるはず。

 

この虐待死の事件を機に、子どもにとっても親にとっても苦しみの少ない社会に、日本が一歩でも近づいていけばいいと祈っている。

 

 

www.orangeribbon.jp

 

www.acyuzuriha.com

 

(僕は「ゆずりは」さんの関係者でもなんでもないけど、寄付先の一例として、リンクを張っています)

memo

 

・午前中家にいたら、東京から奈良県民のライフプランの意識を調査しにきたというファイナンシャルプランナー若い女性がノックしてきた。

同世代か少し年下くらいの人。アンケートに答えながらいろいろと話し込んだ。

その女性が、周りに貧しいシングルマザーの友人がいたり、自身の家族が以前お金で苦労していたために、将来設計や、ファイナンシャルプランナーの仕事の大事さを知ったらしいこと、この仕事を通してさまざまな年齢層の人と話してきて、お金に困っていて、必死で働いていても貧しい人が日本にたくさんいるのを知ったことなどを聞く。

 

貯金は大事やけど、貯金が苦手な人とか、そんな余裕が今も昔もなかったような人でも、不安なく生きられる社会になっていってほしいし、30年後くらいには日本がそうなってるようにしていきたいなと思う。けど、ファイナンシャルプランナーの仕事も、現状の社会の中で個々人がお金に困って苦しむのを予防する上で大事な仕事だと感じた。

 

・図書館で本を探していて、偶然面白い本に出会うことがある。好きな銭湯のことを調べようとして、「銭湯」のキーワードで検索して出てきた本、「「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ」がかなりおもしろい(銭湯の話はほぼ出てこない)。元起業家、社長のおっちゃんが事業を畳んで、借金を返済して資産もなくなって、少ない消費で、生活圏を狭めた生活をしながら、資本主義や経済というものについて思うことを書いている。小さく、近所の人とのつながりを大事にしながら生きられたら温かいよなあと思う。大好きな本。

www.amazon.co.jp

 

 

 

・物欲なき世界

 

2015年にヒットしていたらしい黄色い本を、たまたま書店で見かけて買った。

www.heibonsha.co.jp

 

「自分も物欲あんまりないんだよなあ」なんて思いながら買ったけど、本を買う時点である程度の物欲はあるんだと思う。

 

ただ、車や必要以上の服はほしいと思わないし、コーヒーが好きだけど、キッチンに物を増やしたくないからアイテムを買うのをためらっているほど。

物にお金を使わなくなって若者は何にお金を使うのか、という問いがあるけど、自分は旅とか、人と遊んだり、一緒にごはんを食べることとか、料理とかなのかなって思う。

最近書店でレシピ本が異様に多いのを見かけたけど、料理って一番身近な「楽しめる経験」であり、一種のDIYだから、それが流行るのは、物が飽和して経験やライフスタイルに人々が価値を置くようになった初期の段階としては当然のことなのかなとも思う。

 

初めての人と関わったり、新しく人とつながったりする経験というのはいつの時代も刺激的で、個人経営のカフェにいって店員さんと話すとか、社会人サークルに入るとか、ボランティアをするとか、そういったことを楽しむ人は、(働き方改革がもしちゃんと意味をなして社会人の余暇の時間が増えたら)増えていくんじゃないかなあ。

 

シェアリング・エコノミーについても触れているけど、友達どうしでものを貸し借りしたりするときになんとなく話をすることでちょっと孤独感が癒えたり、手元にない不便さや不自由さを楽しんだりするような感覚を持つのは、便利で孤独な社会だからこそ価値を持っていくんだろうなと思う。すごく久しぶりに思い出したけど、漫画「ハチミツとクローバー」の世界のような、近くに友人や仲のいい先輩後輩がいるような生活はあこがれる。

 

今の時代、いつでも遠くの人と電話やメッセージのやり取りができるけれど、やっぱりすぐ隣に人がいないと感じられないぬくもりはある。

日々の仕事で、そういったぬくもりを感じられる福祉職って、21世紀において実はめっちゃ幸せなんじゃないかともふと感じた。

給料は安いけどね。それも、物欲少なければ給料安くてもあまり困らないんだよな。

 

あと、もはや消費というキーワードからも外れるけど、個人的におもしろいのは、関わったことのないタイプの人とつながることで、たとえば外国人とか、趣味・関心・価値観が自分と違う人と話すことで得られる刺激とか発見。

そういう機会、積極的に持っていこうもっと。

いずれ自分で作っていけたら、もっとおもしろいんやろうな。

 

そうそう。物欲なき~の本でおもしろくてメモしようとしてた部分を書くの忘れていた。

ジャック・アタリの「21世紀の歴史」に触れながら、著者の菅付さんが言っていること。

 

未来は、利益と人権の激しいせめぎあいの中で、着地点を見つけるのだろう。

それがソフトランティングなのかハードランディングなのかはわからない。

ただ言えるのは、その着地点に先に到達した国家、都市、企業や社会が、二十一世紀においてアドバンテージを持った存在になるはずだ。(p238)

 

 

ここだけ切り取ってもなんのことかさっぱりだとは思うけど、印象に残ったからメモ。

人権への感度が低くて利益と人権がせめぎあっていない時点で日本はアドバンテージをもてないだろうけど、直感的な美意識でライフスタイルを真似していくことがうまくて情報も比較的速い(?)日本は、そういった、国、地域をすぐに追従していくんだろうなあとも思う。