考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

昨日と今日と過去と家族

 

 

落ち着くために手を動かしたい。

料理に、家庭菜園に、こうして文章を書くことも、たぶん今は気を紛らわせるためにやっている。

 

 

5月17日(日)

朝10時から福祉ホーム勤務。

日曜日のいつもの業務に加えて、昼食後、福祉ホームで以前パートで働いていた人と利用者さんたちと、zoomでオンライン通話を楽しむ。その方との話のなかでハナノナという、スマホをかざすだけで植物の名前を教えてくれるアプリを知って興味を持つ。あとで調べたらiphone限定っぽい。アンドロイドでも使えるようにならないかな。

 

福祉ホームの働き方。利用者としゃべったり、家事援助の仕事をしたり事務仕事をしたり、それぞれのスタッフが「何時から何時はこれをする時間」などと決めることなく、利用者の希望に沿いつつ、空いた時間はなんとなく好きなペースで働いている。でも誰かに負担がかからないように配慮しながら働けている感じがいいなあと思う。

 

いつもより早めに仕事が終り、帰ってからツタヤで映画を2本と漫画を4冊借りて、帰ってから映画を見る。

文章を読みたくなり、途中で止めてはてなブログで購読している人たちの一番最初のブログを遡って読んだりする。それぞれ表現の仕方や筆致が変わっているのがおもしろい。

 

スーパーで買った肉をたまねぎやアスパラガスと一緒に焼肉のタレで炒めたものなどを遅めの夕食にする。

 

 

5月18日(月)

休日。

昨日見ていた映画が、植物がたくさん出てくる作品で、今日は家庭菜園をしようかと思っている。

ベランダだけじゃなく、玄関側にも使われていないスペースが結構ある。小さなプランターをいくつか置いてハーブ類を育てるのがいいかもしれない。できればプランターも手作りしたいけれど、そこまでのエネルギーはいまはないから、100均かホームセンターで買ってこようか。

 

入院している兄の部屋の掃除をしにいくついでに、兄の部屋で勝手に植物を育ててやろうかとも思う。ちょうど兄の家の近くにコーナンがあった。帰ってきたらベランダが植物だらけになっていてもおもしろいかもしれない。

 

 

 

 

不思議なもので、自分も職場でしんどいことがあって、それが引き金になって過去の家庭内でのしんどさを思い出してしまっていた時期に、兄から電話があり、そのあとで兄は入院をした。

 

家族が調子を崩して入院することはこれまでにも片手の指では収まらないくらいにあったのだけど、いまでもこういうことがあると昔のように、落ち着かない気持ちになってしまう。

心理学や精神病理学を大学で学んで、病気について理解できることが増えて、自分の気持ちの整理の仕方もある程度わかっているはずなのに、まだ心は、無力だった小学生の頃のように萎縮してしまっている。こういうことがあるとすぐに、昔の感覚に立ち返ってしまう。

 

幸い、そこから、いまの自分に引き戻してくれる人がいて、戻れる趣味や楽しみ方をいくつか自分でも持っているのだけれど。それでも油断するとすぐに、昔に戻ってしまう。

 

家族と離れて暮らすようになって8年ほどになるけれど、こういうことがあったときに沸きおこる感覚は、昔とあまり変わっていない。ざわつきと、怯えと、無力感が根底にあって、それをどうにか克服しようとして、何か少しでも役に立ちたいと思って行動している。

 

たぶん、また同様のことがあるたびにこの感覚が蘇って、一生付き合っていくことになるんだろうな。

 

手を動かすこと、人と話すこと、潰れないようにうまく逃げながら向き合っていくこと。全部肯定してやっていくしかないんだろう。でも、そういう人生も、そんなに悪いもんじゃないし、みんなそれぞれ、多かれ少なかれそういったものを抱えているんだろう。

 

 

 

 

 

家族が精神科に入院するときに僕がしていること。

kikikiron.hatenablog.com

kikikiron.hatenablog.com

kikikiron.hatenablog.com

 

 

インフルエンザのときとか、気持ちがしんどいときに文章を書くことが多い。

思えば学校がしんどかった中学2年生のときも毎日のように日記をつけていたし、このブログを始めたのも、祖母が認知症のようになって被害妄想や暴言が増えて精神科に入院し、僕自身も進路に悩むようになった頃だった。

 

 

こうやってつらいことを文章に残すのは、それだけで少し落ち着いたりすっきりしたりできるし、あとで読み返して、「前にもこういうことあったな」とか「前しんどかったときはこんな風に対応してたんやな」とかわかって気が楽になったり、対処の仕方を思い出せたりする意味でも有意義だ。

 

なので僕はいま、またちょっと大変な状況にあるのだけど、こうして朝からブログを書いている。

 

警察署から父親に電話がかかってきて、自分も父から呼び出されて警察署にかけつける、ということをこれまでの人生で何度繰り返したかもう覚えていない。

我が家は平均的な日本の家庭の10倍くらいは、警察と精神科のお世話になっていると思う。

 

だいたいいつも「お宅の○○さん、これこれこういうことがありましてね。」と警察の人に説明されてから、精神科医の診断で措置入院が決まって、精神科にいくことになる。父と僕は入院に必要な衣類などを本人の部屋にとりに行って病院に預けるのだ。

 

警察署の人に病気の説明をされるのも、役所の保険課の人に「大変でしたね」と声をかけられるのも、もう慣れたのでほとんど無感情でやりすごす。

 

けれど意外と、この当たり前のルーティンが心を落ち着けてくれているのかもしれない。もう何度目か覚えられないくらいにこういうことを経験していても、最初に父親の連絡を受けると心がざわつくのだ。

 

部屋は大変な散らかり方をしているかもしれないし、会ったときに病状の悪化しているのを見て、僕自身が、子どもの頃にそれを見たときのような不安な気持ちになるかもしれない。重大な他害行動をしていたのを警察署にいってから聞かされる可能性だって否めない。

 

とは言っても沈んでいても仕方がないので、心を落ち着けるために意識的、無意識的にしていることをまとめる。

いまは親父がいてくれるからまだ気持も楽なのだけど、20年、30年後はどうかわからない。

そんなときに、20代の頃の自分はこんな風に気持ちを落ち着けていたのかと思い出せたらいい。(その頃までこのブログは残っているかわかんないな・・・。笑)

 

 

とりあえず何か食べてからいく

空腹だといらいらしやすいし、落ち着かない。

親から連絡があってもひと呼吸おいて、とりあえず何か食べてからいく。

こういうときは、自分を甘やかしたらいい。

できるだけおいしいものがいい。

おいしいもので満腹になると、「やってやるか」と前向きにこの状況を乗り越えようという気分になれる。

 

少しでも気分をあげてから警察署に向かう。

 

 

星野源の曲を聴きながら向かう

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一度ライブにいったことはあるとは言え、ぼくはそんなに星野源ファンではないのだけど、大変な状況のときはよく星野源の曲を聴く。

特に「地獄でなぜ悪い」は現実逃避をしてるような気分も味わえつつ、これから立ち向かわないといけないしんどい状況に対して「かかってこいや!」と思えるし、なんならちょっとポップなノリで楽しんでやろうかという気持ちにもなれてよい。

 

「夢の外へ」などもおすすめ。

 

音楽を聴きながら警察署や病院へ向かう。

 

 

読みかけの漫画があればもっていく

とりあえず家族が精神科に入院しないといけない状況であれこれ考えても仕方ないので、淡々と行動していくのがいいと思っている。入院後のことはこれからゆっくり考えていけばいいし、弟の自分が考えてもどうしようもないこともある。

 

ならばあまり深刻にならずに気分を上げておく。

そうでもしないと荒れた部屋の片付けなどはそれなりにしんどい気持ちになってしまう。当事者じゃない人間が嘆いてもあまり意味がない。嘆くよりもできるだけ温かい気持ちで本人と関わったほうがいい。

 

少しでも気を紛らわせてポジティブになるために好きな漫画や本を持っていって移動時間に電車のなかなどで読む。現実逃避だけど、移動中の電車のなかで現実と向き合ってしんどい気持ちになっても仕方がないから。

 

 

荷物運び、部屋の片付けなどは”いい運動”だと思う

仕事とかもなんでもそうだけど、やらなきゃいけないことは、できればその行為のポジティブな面に目を向けるようにしている。

荷物を病院に届けるのは筋トレ、原付を警察署から家まで3時間押して運ぶのも、きっといいトレーニングだ。

 

 

心の中で悲劇の主人公を気取る。

 

ここまで言ってきたのと逆のようなのだけど、「大変な状況でがんばってる自分」を「すごいなあ」「がんばってるなあ」とほめてあげる。自己憐憫もたまには大事だと思う。そしてできれば、家族のことを知ってくれている身近な人に、いまの状況を伝えてみる。

 

その日の夜電話する予定だった友人に「ごめんちょっと今から警察にいかなあかんくなってん、また今度話そう」とか、そういう感じである。

誰かに知っておいてもらえるだけでなんとなく気分が楽になることもある。

それでもしんどかったらあとで話を聞いてもらう。

 

 

こうやってブログに書くのも、人に知ってもらうことで楽になろうと思っているのもあると思う。昔誰かが「不幸なことは多くの人に伝えて、幸せなことは独り占めするのがいい」とかいうことを言ってたなあ。

 

 

そろそろ出発しよう。

雨の中3時間原付を押して運ぶトレーニングが待っているので。

へへへ。

 

 

 

 

 

 

水草とゴミが眩しいくらい綺麗な本(7日目)

 

目指していた植物屋さんは、2時間くらい歩いた先にあった。

以前川が流れていた場所を埋め立ててできた細長い広場に入ると、正十二面体を切り取ったような変わった形の建物が見えてきた。GREEN LOFTという名前のそのお店は、多肉植物や季節の花のほか、ドライフラワーやガーデンニングに使う様々なアイテムが揃っていた。

 

店内は小さなジャングルにいる気分になるほど植物にあふれていて、その店の雰囲気は僕に、一冊の小説を読んだときの感覚を思い出させた。おそらくもう10年以上も前に一度だけ読んだ本で、大人になった主人公がアクアプランツショップをしている小説だった。いつか、入院して暇そうにしていた兄にプレゼントした本だ。

 

主人公の智史(さとし)が営むアクアプランツショップでの物語や、子どもの頃に智史が好んでいた水草たち、友人の佑司が描いていた絵がすごく綺麗だったのを思い出してまた読みたくなり、最近できた本屋さんで買って読み返していた。

 

序盤から大量に出てくる植物の名前、水草の世界にのめりこむ主人公の心情描写。著者が発達障害だと知ったときの驚きは、再読していくうちに小さな納得に変わった。

 

 

 

放課後は天国だった。学校の裏手には1本の用水路と、それと並行して流れる小さな川があった。さらに、そこからは細やかな支流や疎水が枝を伸ばし、その先には湿地や沼や、あるいは清明な水をたたえる奇跡のような湧水池が僕を待っていた。疎水にはヤナギモやササバモ、ヒメミクリがたゆたい、沼や池にはキクモやクロモが繁殖し、水面には帰化植物の巨大なホテイアオイが浮かんでいた。

 

物語の中心になる3人は、子どもの頃から、周りの大多数とは違うことに関心を持っている。ゴミ捨て場にある”立派な”ゴミを描いたり、放課後に必ず水辺で水草の観察をしていたり、そんな変わった2人のことを何よりも大事に思っていたり。彼らは当然のように学校のクラスのなかでは立場も弱く目立たない存在なのだけど、そんなことは気にも留めず、自分たちの好きな世界に当然のように浸っている様子が、昔の自分にはうらやましく映っていた。

 

大人になって、好きな仕事につき、好きな人たちと関わることが増え、趣味もできて、昔よりかなり自由に生きることができるようになった。そんないまでも、人目もくれず、大事なものを当たり前に大事にし続ける彼らの生き方には憧れる。

 

そして後半になるほど重要性を帯びてくる、80歳になるまでライバルに負けじと400m走の練習を続けていた主人公の父親の役割もおもしろいし、いいことを言っている。

 

父さんが言っていたことはごくシンプルな教えだった。

いいものを食べられるようにならなくたっていい。金のかかった身なりなど必要ない。いつも清潔にしていればいい。ひとを喜ばせるような仕事をしなさい。いつも優しくありなさい。

 

次は親になったあとにでも(もし叶うなら)、もう一度読み返そうと思う。

 

 

 

 

 

 

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