世間がお盆休みをやっている期間、丸一日仕事が休みなのは昨日、14日だけだった。
まあ、8月前半に4連休とったからいいんだけど。
昨日は、父親と墓参りに行き、大阪の上本町のハイハイタウンの南海飯店という中華料理屋で遅めの昼食をとってから父と別れ、せっかく大阪に来たからと思い、気になっていた應典院の方まで歩き、そのまま天王寺のてんしばまで散歩し、勢いで鶴橋まで歩いてから奈良に帰った。
途中、知り合いの方が紹介してくれたpodcastを聞いていた。
自死遺族としてはとても救われる内容で、
ブッダとその弟子たちが、不治の病に侵されて自殺願望のある仲間にかける言葉が印象的だった。
死にたいという人には、生きていてほしいと伝える。
だけど、亡くなってしまった人に対して、その行為を責めることはしない。
仏教の柔軟さと優しさを感じる。
「自殺」と「自死」の呼び方の使い分けについて話した前回のラジオの内容とも重なっている気がした。
昨日は、奈良の燈花会が最終日だった。
好きなイベントなのだけど、2年間、コロナでなかったから、久しぶりに行こうと思っていた。仮眠で疲れをとってから、会場まで足を運んだ。
お盆の時期に合わせて行われるこのイベント。
宗教的な意味はあまり強いわけじゃないみたいだけど、
なんとなく、亡くなった人のことを思い出しながら歩いてみる。
8月13日に亡くなった人がこの世に帰ってきて、16日にあの世に戻っていくとされる、日本のお盆。
だけど今年は僕は、1日だけ。
お墓参りと、燈花会の会場を歩くことをして、おしまい。
もちろん、その前後や他の日でも、亡くなった人のことを思い出すんだけれど。
生前、育て親のおばあちゃんに会いにいくときも、思えば毎回そうだった。
1~2か月に一度、老人ホームに会いに行って、昼食を一緒に食べて、少し話をして帰る。
いま、正月や休暇に親と会うときもそう。家に泊まったりはしない。
それが自分の、家族とのつきあい方。
亡くなった人とも、自分らしい付き合い方で関わればいいのかもしれない。
これまで、自死で身近な人を亡くす経験などについて語ってきたラジオを、
最初から順に聞きながら、燈花会の会場を歩いた。
自死、精神疾患、自死遺族の生きづらさ、誰かに話した経験、表現すること、自分も死にたいと思ったこと、捉え方の変化、受け入れられるようになるまでの経緯、不安定さ、自分を大事にすること・・・
これまでいろんな話をしながら、何度も亡くなった人のことを考えてきた。
この前、話を聞いたお坊さんが、「遺族であることに、定義はない。いつからいつまで遺族ですって決まってるわけじゃない。自分が遺族であると思っている間はずっと遺族なんです」って言っていた。
遺族であり続けることは、悪いことじゃない。その間、亡くなった人のことを思えている、大事にできているということ。
僕は、母が自殺をした29年くらい前から自死遺族で、遺族歴はとても長い。
だけどこれからもずっと自死遺族であろうと思う。
遺族であることを大事にしながら、人生を送ろうと思う。