書きながら考えたこと。

奈良で暮らす20代の男の、とりとめのない日々の記録です。

質感と読み心地が良い本(6日目)

日常的に本を読んでいると、そのときのもやもやや考え事にぴったりな表現に出会うことが時々ある。「生涯で経験するあらゆる悩みに対する、自分にぴったりな回答はもう誰かがすでに表現してくれているんじゃないだろうか」なんて錯覚に陥るほどで、こんなことがあるから読書はやめられない。

 

noteやブログで、文章を表現することに少し悩んでいた。時々知り合いにおもしろいと言ってもらったり、知らない方からコメントをいただいたりすることがあるのは嬉しい。書くことは好きだし、あえて人が見ている場所にそれを晒してリアクションをもらうことに、おもしろさを感じていた。けれど自分の書く文章の、スタイルやテーマの統一性のなさに気づくたびに「こんなに雑多でいいのか」とか「人に読んでもらうほどの価値のないものをダラダラと投稿してしまってるんじゃないか」という不安が漠然とあった。

 

特にnoteでは、読み終わったnoteのあとにおすすめの関連noteがたくさん表示されるから、おそらくブログやSNSよりもフォローされていない人にも見られる可能性が高いし、執筆業をしている人のおもしろい文章もたくさんあるなかに投稿するわけで、自分の頭のなかの整理のために日記感覚で書いているブログとは話が違う。

 

「多くの人に響くようなおもしろい文章を書きたい」思いと、「おもしろいと思ってくれる人がひとりでもいて、自分も書いていて楽しいのであれば、そんなに人目を気にせずに投稿すればいいんじゃないか」という気持ちの間で揺れ動いていた。

 

昨日、数人で文章表現について話をしているなかで、こうした自分自身の文章投稿のあり方について、改めて、考えさせられた。

 

雑誌やウェブマガジンに載っていてもおかしくないような、多くの人に読んで楽しんでもらえることを目的とした、よく練られた文章と、他の人にとってはどうでもいいかもしれないようなことをなんとなく書いたような文章があるとしたら、自分はどちらも読んでいておもしろいと思うことがあるし、力の抜けた適当な文章にこそ癒されるときもある。「推敲せずに書いたから誤字脱字もあります!」って開き直っている文章にも、おもしろさを感じることがある。

 

何がおもしろいかは結局のところ読者によって、あるいは同じ読者でも気分によっても変わるだろうし、毎回質の高い文章を投稿しようとしたら書けなくなってしまうこともある。

 

そんなことをもやもやと考えていた昨夜、徳島でアアルトコーヒーというコーヒー屋さんをしている方が書いた本に、すとんと心に落ちるような文章があった。

 

honto.jp

 

 しかし、丁寧にできる日もあれば、雑になってしまうときもある。毎日丁寧に淹れるなんてしなくてもいいし、できる訳がない。暮らしも両方あるのがいい。雑な生活が続けば心が荒んでしまうし、毎日が丁寧だと疲れてしまう。丁寧に暮らすというのは、誰かに対してするものではなく、自分や家族の毎日に自然と表れるもの。
こんなふうに生きていこうとみんなで話し合い、ちょっと違うと思ったらその都度指針を見直して進んでいくのがいいと思う。難しい顔してじゃなく、笑いながらできたらいいな。完璧を求めない、幅のある暮らし、それこそが本当の丁寧な暮らし。

 

 

人それぞれに考え方があると思うけれど、自分はこのあり方が合いそうだ。丁寧だったり、雑だったり、文章にも幅があってもいいよな。

片意地張らずに、でもできれば良いものを目指して、文章を書いていきたい。

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ブックカバーチャレンジ6日目。

同じ職場の先輩が先日ブックカバーチャレンジで投稿していて、その先輩から貸してもらった本でした。紙の質感がよくて、読んでいて心地いい。