短い話を3つ書きます。
書き物と読み物。
はてなブログで文字の色変えられるってこと、5年前から書いてるのに今になって気づいた。笑
はてなブログを続けながら、noteも時々書くようになってしばらくは使い分け方がわからず迷っていたのだけど、ここ数ヶ月、自分の中で少し定まってきた。
それについていつか書きたいと思いつつも、ブログに書くほどのことでもない気もして書かずにいた。今回2つの短い話を書きたくなったので、その前に少し書いてみる。
使い分けといっても、ジャンルによって分けるとかそういったことではなくて、書いている自分の意識の問題なのだけど、僕ははてなブログには「書き物」を書いていて、noteには「読み物」を書くようにしている。
こんなことを言ったらはてなブログの読者さんに怒られるかもしれないけど、こっちでは僕は基本的に、書きたいことを書きたいように書いている。シンプルに、書きたいことがあるから書く。だから文章が雑になったり、まとまりのない話をすることも多いし、読者をあんまり意識していないから(読んでくれるのは嬉しいですよ。)、思っていることをストレートに、飾らずに表現することが多い。
一方でnoteは、「読み物」を書いている。僕のnoteのフォロワー数は少ないのだけど、それでも比較的いろんな人に読まれているみたいで、noteというサービスの性質上、関連する文章をオススメしていたり、タグや「お題」から好きそうなタイトルの文章を読みにいくこともできるから、いろんな人がいろんな文章にアクセスしやすいというのがあるのだと思う。だから僕は、読み返した時にある程度おもしろいと思えるような文章を書きたいと思っている。少なくとも自分が悪くないと思えて、納得できる文章を書くようにしている。だからnoteのほうがよく推敲している。
もちろん、はてなの方も、多くの人に読まれているらしいものは何回か見直して、せめて誤字や脱字や、言ってることに矛盾がないように編集したりしているけれど。
「書き物」と「読み物」を使い分ける意識ができてくると、手紙とか日記なんかでも、今自分が書きたいから書いているのか、読んだ人に楽しんでもらいたくて書いているのかを意識できるようになる。
ちなみに、当たり前っちゃ当たり前だけど、日記は「書き物」であるべきだと思っている。頭のなかや、日々の記録をストレートに赤裸々に書いたものの方があとで読み返しておもしろい。
ちなみに僕は紙のノートに鉛筆で日記を書くのが好きだ。これについてはまたどこかに書こうと思う。もしかしたら、紙のノートに書くかもしれない。
マスクを洗う
初めて洗った布マスクは、人のマスクだった。別に遠い昔の話ではなくて、たった半年ほど前のことだ。身体障害のある人の生活を支援する仕事をしていて、アベノマスクが行き渡るよりもずいぶん前の確か3月か4月くらいに、施設の利用者さんには一足早く布マスクが配布されていた。あべさんがしていた小さなマスクではなくて、エアリズムのマスクのような、大きなサイズのものだ。
スタッフには配布されず、スタッフは備蓄の不織布のマスクを使っていた。だから自分のは洗わなくてよくて、繰り返し使う、利用者さんの布マスクを、洗う動作が難しいその人の代わりに、僕が石鹸で洗った。
当時はコロナが今以上に恐れられていたし未知のウイルスだったから、人のマスクを手で洗うことには少し抵抗があったけれど、どうせ手もあとで石鹸で洗うからいいか、と思うようになってだんだん慣れてきた。
布を手で洗って綺麗にする、という機会は僕は普段そんなに多くないから、洗って綺麗にして繰り返し使う、ということが(それが人の物であっても)なんだか落ち着いて心地よかった。
皿洗いもそうだけど、洗う作業が僕は好きなのかもしれない。水に触れる感覚とか水を見ることとか、物が綺麗になっていくこととか。マスクの場合は、布をこすり合わせて洗うというのがあって、しかも雑巾ととは違って薄いから余計にその感触が気持ちいいのかもしれない。そしてこれは全部に共通だけど、目の前のものが綺麗になると、心もすっきりする。
しばらくして、自分も布マスクを使うようになって、外から帰ったら、マスクをはずし、手と一緒にマスクを洗って干すのが習慣になった。繰り返し使うと愛着がわいてくる。7月に岐阜県の恵那市で買った草木染の200円のマスクを、今も使っている。
洗ううちに色落ちして、黄色かったのがくすんだ色になって、今ではほぼ白だ。
さっきハイターで消毒したらさらに白くなって、だけどこれはこれでありかなと思っている。少しごわごわしてきたけど、もうちょっと使い続けたい。
おいしい蕎麦の食べ方。
一人暮らしの僕の料理は実験で、冷蔵庫やガスコンロの近くにいろんな調味料を置いていて、毎回いろんな味付けを試している。ちなみに最近買った調味料はマレーシア料理なんかに使うサンバルとケチャップマニスだ。
あんまり美味しくないものができることもためにはあるのだけど、もう相当長い間この遊びをやっているので、だいたいおいしくて新しいものを作ることができる。
最近ベランダに実っていた小さなゴーヤでスープを作ろうと思って、冷蔵庫に保存していたカラスミのパスタソースとコンソメで、細かく切ったゴーヤを煮た。ソーセージも入れて、韓国ノリとすりゴマも入れてみたら結構おいしいスープができて、ご飯にかけてもいけた。
そのスープが余っていたので、つけ汁にして蕎麦を食べたくなり、韓国ノリをさらに2枚ほど加え、水溶き片栗粉でとろみをつけて、最後に溶き卵を加えた。とろみのついたスープに入れた卵がとろっとろになり、ゴーヤの苦味とノリとカラスミの旨みが効いたおいしいつけ汁ができた。
蕎麦を茹で、流水で冷やしたものをそのつけ汁につけて食べるととてもおいしかった。
とてもおいしかったけれど、おそらく二度としない蕎麦の食べ方。
おいしくても2回目は1回目より感動が薄いから、次は少し違う味を試したくなる。それでなくても、我が家に韓国ノリとカラスミのパスタソースとゴーヤが揃うことはめったにない。
どんな料理も一期一会で、だからおもしろいし感動する。
レシピに囚われない料理、というより、「遊び」の記録。
二度と作らなくても、残しておくのもありかもしれない。