書きながら考えたこと。

奈良で暮らす20代の男の、とりとめのない日々の記録です。

当たり前に助けを求めること

昨日15分で書いたブログを読み返したら誤字脱字がひどかった。笑

昨日のはあえてそのままにしておこうと思うのだけど、今日からは15分で書いて3分で見直すようにしよう。

 

7時30分から始めたので45分くらいまで書いてみる。

 

昨日の仕事で利用者さんとガイドヘルプで買い物に行く途中、家族の話になった。

この時期になると、母の誕生日プレゼントを買うために、彼はもう3年、毎年なぜか僕と一緒に出かけている。

芸能人の自死を受けて、産後うつだったのではという意見がテレビで出ていたという話にもなり、そこから、自分に妻ができたら、奥さんがしんどそうになってたら子どもを誰かに預けてどこか旅行にでも連れてってあげたいと彼は話していた。

 

もちろんそれにはヘルパーを使う必要がある。子どもを預けるヘルパー、じゃなくて、自分の介助をしてもらうためのヘルパーだ。彼はトイレにも介助が必要なのだ。

 

だけど、自分はヘルパーに助けてもらいながらそういうことができる、と当たり前に言う彼が、すごくいいなあと思った。

 

思えばちょうど2年前くらい、今の職場で働き始めたころだった。初めて彼とガイドで出かけたとき、身体が不自由で子どものころから誰かに助けてもらっている彼が、人を頼ることにいい意味で慣れているなと感じて、そのことをちょっと羨ましく思っていたんだった。助けを求めることが日々当たり前にできている、というかしないと生きていけない。だから、慣れている。

 

少なくとも、孤独で自殺したりすることはないんだろうなと思った。

僕の高校や大学の出身者は、とても優秀な人たちなのだけど、何人か自殺をしている。

 

 

僕も、もともと助けを求めるのがすごく苦手なタイプだった。

中学3年のころ、二人暮らしをしていた祖母の勉強へのプレッシャーなどからかなりうつ気味になっていて、すごく暗い表情で放課後帰宅しようとしていたとこを、英語の先生に「大丈夫か?」といって呼び止められ、話を聞いてもらった。

 

濱田良一先生。元気にしていらっしゃるだろうか。

 

そのことがきっかけでカウンセラーの仕事を志したりしたのだけど、今思えば、僕は先生に心配されるほどしんどさを隠すのが下手で、ある意味わかりやすいほうだったのかもしれない。いまでもわりと、疲れとかがわかりやすい方だと言われることが多くて、それはある意味いいところだと捉えて、直そうとしていない。

 

逆に、しんどくてもそれを見せずに笑顔で振舞ってる人が本当に日本にはたくさんいると思う。当たり前に、しんどいと言えて、なんならしんどくなる前からちょっとでも困ったことがあったら誰かに助けを求められる社会の方が生きやすいだろうになと思う。

 

ヘルパーの仕事をして日々感じるのは、誰かに頼れられるのは幸せなことで、だから自分が助けを求めたり、人を頼ったりするのも遠慮なくしていったらいいんだなってこと。

この仕事をして、ぼくは随分行きやすくなったし、いい環境に出会えたと思っている。

 

はい、15分終了。笑