考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

隣りにいる人が自分の一部を作り、自分がその人の一部を作ってるという話

関空に向かう電車の中で読んでた記事がおもしろかったので、思ったことを書く。

 

重度身体障害者の国会議員の天畠さんの、どこまでが介助者でなく自分の意見なのか、どこまでが自分らしさなのか、という話。

 

https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/tenbata?bfsource=relatedmanual

 

 

介助者があかさたな話法を読み取るときに先読みをして、天畠さんに伝え、多少意味が違っても大意があっていれば天畠さんはうなずく。

どこまでが自分の伝えたいメッセージで、どこからが介助者の意見なのかがわからないし、介助者のキャラクターによって、天畠さんのキャラクターも違ってくる。そういったことを丁寧に掴んでいく、おもしろい記事。

 

平野啓一郎さんの分人という言葉はもう有名だけど、介助を受けずに生活している僕も、だれといるかによって見せる「自分らしさ」は変わってくるし、

この記事の後半で出てくる、弱さを互いに見せられる関係、というものの良さにもとても共感する。

 

人によって意見をかえてしまうことは、優柔不断だとか自分の意見を持たないなどと批判されがちだけど、流され合う関係の心地よさは確実にあって、その幅の広さが心の余裕なのかなと思うこともある。

 

 

「多己決定する自己決定」の話も、僕が頻繁にやっている、他者の意見をスマホや本から取り入れながら、共感する部分を自分の意見として構築していくような作業に似ているのかもしれない。

 

 

以下引用

「当事者(自己)を取り巻く様々な関係者から見た自分のあり方(他己)を取り入れながら、自分の意思を社会に示していく方法だ。

 

「多己決定する自己決定」とは、「発話困難な重度身体障がい者」が、「通訳者」という特定の他者に依存しながら、障がい当事者の思考を「通訳者」の能力によってブラッシュアップしていく営みと定義する。(『しゃべれない生き方』より)」(引用終わり)

 

介助者と介助を受ける側が互いに弱みを見せられる関係には、そこに絆のようなものが生まれやすい、そして、その絆が介助を続けてもらうことを担保してくれる。

という天畠さんの発言もとても示唆深い。

 

身体介助を必要としていない僕のような人間が、継続性を求めるべき関係性ってなんだろう。