セネカの言葉、とされているらしい。
昨日も、「ローマの哲人 セネカの言葉」を読んでいた。
著者の中野さん、亡くなる数年前にこの文章を執筆したらしいのだけど、セネカに倣って、怠惰に生きる人に対してはかなり厳しいことを言っている。
僕自身は生き方に正解はないというスタンスなので、その部分はあまり共感しないのだけど、それはおいておいて、この本に出てくるセネカの言葉にははっとさせられることや、じんわりする手紙もあってすごい。哲学者の言葉にこんなに心ゆさぶられるとは。
タイトルの言葉は、息子を亡くして悲嘆にくれるマルキアへの手紙として、セネカが書いた「マルキアへの慰め」を紹介するところで引用されているフレーズ。
周りの人の子どもが亡くなって埋葬に運ばれていく様子をこれまで見てきたはずなのに、自分の子どもに限っては大丈夫と思って覚悟せずにいるから、悲嘆に暮れてしまうんだという話をしている。この部分だけ切り取るとめちゃくちゃ厳しいようだけど、マルキアへの慰めは思いやりと愛情が感じられる。
「誰かに起こりうることは誰にでも起こりうる」
この言葉は、自分の身に辛いことが起きる前に、肝に銘じておくべきことだなと思う。
昨夜、10代で母親、20代で父親を亡くした方にインタビューをした。
他にもいろいろな逆境体験をしながら生きてきた方で、「それをものともせずに強く生きていきた」わけではなく、むしろ真逆で、しっかり落ち込んで、苦しんで、不登校や引きこもりの期間もありながら、なんとか前を向いて生きてきたような方だった。
ようやく前を向いてやっていこうとしていたときに家族の病気が見つかり余命宣告されたりと、運命が彼に与えたタイミングもなかなかひどいもので、「そんなにハードな経験をしなあかんか?」ってつっこみたくなるほどなんだけど、彼が若いうちにしてきた経験って、実は誰しもがいずれはすることなんだよな、とも思う。
もちろん、若いうちに親が亡くなるより、自分も成熟してから、老齢の親が亡くなる方が一般にショックは小さくて済むだろうけど、かといってしんどいのはしんどいだろうし。
そういうことを考えると、やっぱり、しんどい経験をしてきた人の話を僕は聞きたいし、そういう人たちから学びたいんだなと思う。
ストア派の哲学は、なんとなく仏教にも近いような気がする。
名誉やお金よりも余暇が大事だという話「人生の短さについて」も、2000年前に書かれているけど、現代人はいまだに必要以上のお金を求めて、自分の時間を浪費してあくせくと働く、というようなことも書かれている。
だけど、お金を求めて、というよりは、必要とされるから働く、という方が実態に近い気がする。
昨日もpodcastをとったその人と話していたけれど、優秀な人ほど主要なポストにつかされて、大変な仕事を任される。それで疲弊して、社会全体のことを広く考える余裕がなくなってしまうようなことは、たくさんの現場で起きていそう。
仮に働き方がホワイトになって時間は短くなっていたとしても、考えることの量は変わらないどころか増えていることもあると思う。
脳のキャパシティって限られているから、何にどれだけ自分の時間や、考えるためのエネルギーを使うのかっていうのは、できるだけ自分で管理したい。
仕事は頭脳労働からはなるべく離れて、仕事外の活動で自分の脳みそを使うようにするってのもありなんだよな。