とても個人的な、毎年起きる心理現象について考えてみようと思う。
憂鬱さは、脳の疲れだと思っているし、多くの部分は実際にそうだと信じている。
気持ちがしんどくても、横になってしっかり休めばだいたいの場合は回復するし、そうでないときは、自然の豊かな環境に身を置いたり、銭湯に行ったり、体を動かしたりすることでどうにかなる。あるいは、人に話を聞いてもらうことで楽になったりする。
ここ数年に関しては。
ただ、秋ごろにふとやってくる憂鬱さには、そういう方法で対処しようと思えない何かがあって、その憂鬱さは、寒い冬になる前に、メンタルのモードのようなものを切り替える過程で必要なもののような気がする。
そこには、まったく同じ状況でも他の季節には感じることのない孤独感とか、寂しさのような気分が混じっている。だからといってこの気分は、誰かと過ごす時間を長くすればいくらかは紛れるかもしれないけど、それだけで解決するものではない。人といても孤独に思ってしまうことの方が多かったりもする。
体に注目してみたら、頭の奥がきゅーっとなって、呼吸が少し浅くなっている。
悲しみ、深さ、人生の厳しさ、不条理さみたいなものはどうしようもなく存在していて、そうしたものを受け止めるための器が心のなかにあったとして、夏には、そういうものを感じる機会とか、感じるにしてもその量が大きくなくて、だから器も小さくなってしまう。
だけど、それを受け止める器も大事だから、冬になる前に、理由もなく悲しみに耽って、そうした器を大きくしているのかもしれない。
なんだろうな。
大学の頃に、臨床心理学を学びながら、地下にある図書室でトラウマとか虐待に関する事例を読み漁っていたときのような、しんどい経験をしている人への関心。過去にしんどい経験を自分もしたから、そのことへの共感とか興味とかはかなりあって、それは、やっぱり大事なようで、時々思い出したり、そのあたりの知識を深めたりすることは必要なのかもしれない。
またいつ冬の時代を、経験することになってもいいように。
孤独とか、わかりえなさとか、厳然と存在していて、そこを自覚しておくことが少なくとも自分には必要で、だけどそれだけでは生きていけないから、人と戯れたり、くだらないことを話したり、力を合わせて何かを成し遂げたりするような、オープンで、能天気なマインドも持っていたくて、
そこが、季節によって行ったり来たりするような感じで、
夏のモードから冬のモードに映っていく、移行期のこのタイミングは特に、落差がある分しんどいのかもしれないなと思う。
慣らしていけばいいんだけど。
苦手な春みたいに、秋のこの時期の憂鬱さも、紛らわそうとせずに、全力で浸ればいいのかもしれない。
思いっきり孤独に、思いっきり憂鬱になってしまおうかな。