考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

5/50 一緒に抱えてくれる人を増やす。

12月14日から2月1日まで50日間連続で、noteかはてなブログに500~2000字程度の文章を投稿することにしました。内容によって、どちらに投稿するかを決めています。

 

 

 

おとといは京都、昨日は難波で友人らと飲む機会があった。

どちらもすごい数の人で、徒歩移動を増やすことでどうにか人酔いを紛らわせた。

都会の駅の間隔で、1~2駅分くらい歩けば、少し体全体の調子がよくなるし、頭がすっきりする。冬は寒いから油断すると運動不足になりがちだし、柿収穫の仕事が終わってからは、当時と比べると慢性的な運動不足なのもあって、意識して歩くようにしている。

 

 

昨日は、最近一緒に活動している人たちと初めて一緒に飲んで、深い話をする。感性が近いなと思って集まった人たちは、境遇も実はけっこう近かったりして、そういうひとたちの中にいると、自分は特殊(どちらかというとネガティブな意味で)と思っていたものが、溶けてなくなっていくような心地よさがある。

 

 

最近読んでいた勅使川原さんの「「能力」の生きづらさをほぐす」という本の後半で、著者が授乳中の胸の痛みを感じたあとに、原因を知りたくていろいろなセラピーや治療者のところに行っていたら、結果乳がんの発覚が遅れてしまった話をしていた。

 

 

状況や原因を理解したいとか、わかっておきたい、あるいは、安定した状態にいたいという思いは多くの人が持っていて、その気持ちを受け止めてくれる人がいないと不安だし、自分の話を聞いてくれる人を求める(その結果、悪徳ビジネスに流れてしまう場合も残念ながらある)のだと思う。

 

 

ルチャリブロのインスタグラムで、「抱えきれないから(来館者に)一緒に考えてほしい」という意味でパレスチナ問題にまつわる本の展示をしていると青木さんが投稿していた。

 

www.instagram.com

 

 

 

福祉、社会課題領域の支援者も、子育て中の親も、介護をしている人も、重い責任のあるポストについている人もそうだと思うけど、たくさん抱えてしまっている人(社会のなかでの役割としてたくさん抱えている場合も、あるいは共感性が高くて自分事として抱えてしまいがちという場合も)が、一緒に抱えてくれる人を作っておくというのはすごく大事なことなんだと思う。

 

 

それに近いような、遠いような?内容を、虐待防止学会、自殺予防学会に参加した友人にゲストに来てもらったstandfmでも少し話した。支援者は、自分の過去の経験を共有できる人がいると、利用者さんとの境界を侵犯してしまうリスクは減るんじゃないかという話とか、自死でクラスメイトが亡くなったときに、話せる場があった方がいいじゃんって話とか。

 

stand.fm

 

stand.fm

 

 

特に支援者って、利用者さんの困難さだけじゃなくて、

自分のなかにある満たされなさとか、ある意味幼児的な欲求とか、子どものような感情も話せるような関係があった方がいいんじゃないかなと思っている。

 

 

支援者だけじゃなくてみんなそうかもね。

 

大人だって子どものような感覚は誰しも持っているのが自然だし、

それを出せる場所や人がいないとしんどくなってしまう。

 

 

逆に、話せる人、受け止めてくれる人がいたら、状況がハードだったり、不安定な立場でも、どうにか立っていられるんじゃないかな。適切なときに、変化が起きるのを待つことができるというか。

 

 

休職中や、休む人のための場所を作っているあわひの活動も、自分自身を待つ支えになってくれてるんだよな。