考え事と生活の記録

とりとめのない日々の記録です。

煩わしさをもらいに行く

友人のお墓参りに行く途中の電車で書いている。

亡くなった人と今も繋がっている感覚を持っているとき、孤独が癒えるのはどうしてだろう。その人と自分とのつながりは、誰にも見えない、評価されることのない、自分だけのものだからだろうか。


昨日、あまりよく寝れず、いまも眠気が強いからあまりうまく書けないかもしれないけど、昨日のケアする人のケアセミナーの播磨さん、西村先生の話などを聞き返したり、今学校のレポートで、社会的孤立について調べながら考えていて思うことについて書こうと思う。

煩わしさをもっと貰いに行くことをしなければならないんじゃないかってことについて。


田舎育ちの人が東京へ出て働いて一人で生計を立てるようなイメージに近いのだけど、人間関係の煩わしさに満ちた村社会の文化を克服すべき対象とみなし、お金があれば一人でも行きていくことができるシステムを目指して作られた現代の日本社会があって、それゆえに人間関係を築くことが好きでなかったり、得意でなかったりする人が孤立しやすく、困ったときに(お金を使わずに)他者に助けを求めるのが難しい世の中になっていふようだ。人に迷惑をかけてはいけない、って思ったりして。


助け合いの人間関係は、与えることから始まるというようなことを播磨さんが言っていた。

ケアの話をしているわけだから、与えるのは、別に物やお金じゃなくて、困っている誰かを助けるということ。
寂しくて話を聞いて欲しい人の話を聞くとか、人の悩みをちゃんと聞いてあげるとか、そういうこと。
誰かを助けたいと思っている人に、助けを求めることも、ひょっとすると与えることかもしれない。

ある程度距離を保った友人との関係性は、無難だし快適かもしれないけど、もっと深く関わってみる、友人のために、言うべきことは厳しいことでも伝えるとか、そこで喧嘩になることがあってもその面倒さも引き受けるとか。

しんどいこと、面倒なことを、プライベートで、あえて引き受けてみる。
煩わしさと、社会的連帯は切り離せないものなんだから、煩わしさを避けるべきものと思わないで、必要なものと思って、もらいにいくくらいの姿勢で生きたほうが、煩わしさを避けて快適な方向に偏りすぎた、今の時代、豊かな人生を送りやすいのかもしれないなと思う。


最後に、この話とあまり関係がないのだけど、播磨さんがこれまで自分に言い聞かせてきたという言葉が、良いなあと思ったのでメモ。

悲観主義は性格、楽観主義は哲学」

前向きになるのはエネルギーがいる。
悲観主義を否定するわけじゃないし、悲観主義の良さや強みもたくさんあるけれど、何かことをなそうとするときには、努力して自分の中に哲学を作るべきなのかもしれない。